雑念が溜まってどうしていいかわからないときって、あるだろうか?
矛盾に満ちた現実の中で雑念に振り回されて、どうしていいかわからなくなるときって、俺はしょっちゅうある。
そんな時は瞑想をしたら良い。
瞑想によって、今に佇めばいい。
そしたら、雑念の霧が晴れてきて、頭の中がスッキリとしてくる。
今まで理不尽に思っていたことは、幻想だったんだなって、気づくことができる。
今現在には何も起きていないことに気づく
念の為言っておくが、これは問題に対する現実的な解決策ではない。
もっと高い抽象度の話であることを一応断っておく。
現実的に解決が必要な場合もあるだろう。
それはそれでしっかりと対処しなければいけない。
この記事では、そういうことを言っているのではない。
なぜ瞑想によって今に佇むと、今まで思っていた悩みが晴れるのだろうか。
それは、今に佇むことで、今現在には何も起きていないことに気がつくからだ。
あなたが頭を抱えた問題は、確かに過去に起こったかもしれない。
しかし、今この場で起きているわけではない。
それを、今この瞬間にまでも過去の問題を持ち出すってことは、あなたがあえてやろうとしないとできないことなのだ。
つまり、あなたが過去の問題にあえてこだわっているということになる。
しかし、自我というものはどうしてもこだわってしまうものだから、時々は瞑想をして今にくつろいでみて、抱えていたかに見える問題は幻だったってことを思い出す必要があるんだ。
人はこの瞬間から生まれ変わることができる
人は瞬間瞬間に生まれ変わることができる。
そんなことを言う人がたまにいる。
もし、この瞬間に記憶喪失になったとしたら、過去に起きた出来事による悩みは忘れてしまい、さっぱりとした気持ちで生きるようになるのではなかろうか。
たとえ記憶喪失になっても、過去に起きた出来事は変わりないが、あなたは記憶が無いので今この瞬間を起点として、また新たな気持ちで生活することができるのだ。
記憶喪失にならなかったとしても、あなたは過去を起点として今を生きるのではなく、今を起点として今を生きることができる。
瞑想をすることで、過去の記憶の中で生きていた状態から、今に佇んでいる状態へと意識を調整することができるのだ。
そして、今とは、何も起こっていない、穏やかで安心感がある空間だ。
過去を起点とするからどうしていいかわからない
理不尽な過去の出来事を起点としていたから、今どうしていいかわからなかったのではないか?
過去を起点として考えていた場合、大体が自我の欲求を満たすことを求めてしまう。
不満をぶちまけてやりたい。
相手に自分の思いをわからせてやりたい。
どうしていいかわからないなんて思わない人の場合は、その欲求に従えばいいだけなんだけど、ここで迷ってしまう場合がある。
自分のしたことが良かったのかどうかわからない。
自分本位じゃなかったか。
こんな風に考える人はどうしていいかわからなくなってしまう。
何が正解かわからないからだ。
ていうか、正解なんて元から存在していないので、悩んでも答えは出てこない。
悩みがあるのに、どう対処していいかわからなくて、苦しさが続いてしまう。
今を起点として考えれば、それはもう、愛からの行動しか出てこない。
今現在には、何も起きていないのだから、心からの行為しか出てこない。
つまらない仕返しなどのためでなく、自分の最も大事にしている考え方から出てくる行動をしようと決断することができるわけだ。
雑念でどうしていいかわからないときは瞑想によって消し去ろう
どうしていいかわからないときは、わからないまま何か行動を起こすのはやめよう。
それはきっといい結果を生まないから。
それは自我からの、自分の利益を主張するような行動でしかないから。
一旦落ち着いて、瞑想をして今に佇んでみよう。
問題は過去に起こったこと。
今現在には何も事は起きていない。
問題は今は起こっていないのだ。
もし今に問題を持ち出すのなら、それはあなたがあえてそうしていることだ。
過去を起点として行動を考えても、答えは出ない。
今を起点として行動を考えてみよう。
それは無からの、愛からの行動となるはずだから。
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