真実の愛とはスピリチュアル的には、過去にも未来にもなく、今にしか存在しない

真実の愛とは何か 幻想

スピリチュアル的に言って真実の愛とは何か

愛は今この瞬間にしか存在しない。

過去にも、未来にも存在しない。

過去や未来に存在するのは自我だ。

家族や恋人が「これは愛情だ」と言って差し出してくる代物が本当に愛情なのかどうかは、これで判別がつく。

また、あなた自身が愛情を感じたいと思ったら、今この瞬間に意識を沿うようにすればいい。

過去も未来も自我による想像の産物であり、愛はそこにはない

なぜ愛は今にしか存在しないと言い切れるのか。

それは、本当に存在するものは今しかないからだ。

過去も、未来も、人間の脳内にしか存在しない。

人間の脳が考えた妄想であり、想像の産物に過ぎない。

実際には形として存在しない。

自我の働きによって過去の記憶から妄想が作り出され、手入れをしないとずっと脳内で妄想によるおしゃべりが止まない。

自我の働きは、自分のことを一番大事に思い、自分の利益を守ろうとするものだから、そんなものからは愛なんて生まれない。

愛とは、人間の意識が今に集中し、自我が消え去った時にそこにすでにあったものだと気づく。

自我と愛は共存できない。

今に集中するから愛をかけられる

猫をなでて可愛がる場面を想像して欲しい。

猫に意識を向けて頭をなでている時は、猫に愛情をかけていると言える。

しかし、テレビを見ながら、手だけ猫の頭をなでてたとしたら、それは愛情があるとは言えないだろう。

猫は敏感に感づくはずだ。

猫を見ながら、意識を向けてなでている時は、”今にいる”猫に意識を向けている。

だから愛情をかけることができる。

子供を縛る親の思いは自我から来ているかもしれない

親が大学生の娘に対して、友達の家に泊まりに行っちゃ駄目だと言っているとする。

親は娘を疑っているのかもしれない。

友達だと言っているが、実は付き合っているのを隠している男かもしれないと。

それを親は「お前のことを大事に思っているからだぞ」などと言う。

本当は違う。

自分の娘が男の家に泊まりに行くと想像すると耐えられないからだ。

親の愛だと言いながら、その実はエゴからくる厳しさでしかなかった。

疑いも、自我から来る妄想でしかないので、愛にはなりえない。

自我だから、自分が傷つくのを避ける思考を生み出す。

娘は本当に友達の家に泊まりに行くだけなのに、親自身の自我により、それを許すことができないのだ。

当然、自分の子供だからといって親のエゴで縛っていいはずがない。

真実の愛は、今この瞬間にしかない

愛は、今この瞬間にしか存在しないものだ。

もし自我から来ている思いについて「これは愛情だ」と言う人間がいたら、気をつけたほうが良い。

そいつはエゴを愛情だと勘違いしている面倒くさいヤローだ。

自分にとって得になるようにあなたに巧妙に働きかけ、あなたを操ってくるだろう。

本当の愛はそんなものじゃない。

自我の消え去ったところに、愛は存在するからだ。

今に集中しよう。

愛の中で、愛とともに生きよう。

自分以外の人間に、愛情をかけられるようになろう。

今に集中して生きることで、自我に取り込まれないから。

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