神を信じていなくても
最近、感謝も宗教と一緒なのではないかという考えが浮かんだ。
感謝しなさい、という教えはよく耳にする教えだけども、それって、神を信じなさいと言ってるのと同レベルのことなんじゃないかって。
感謝の心を持てている人は、神を信じていなくても、同じく豊かな心を持てるようになる。
感謝というのは、ギブアンドテイクではない。
フィフティーフィフティーで感謝を返すというのはしない。
してもらったことよりも、多くのありがとうを返すことになることだってある。
本当に感謝の心を持っていたら、そんな損得勘定なんて気にしない。
感謝とは、あふれるものだから。
そして、感謝とは、自ら持とうと努める感情だ。
自ら心に働きかける主体的な意志を持っているということになる。
ポジティブ思考とは、主体的ってことだ。
良いことが起こらなければ、笑顔でいる必要がない、というのでは反応的態度ということになってしまう。
ケチな心、不細工な心と言える。
このように考えると、神を信じる心の動きと、感謝の心というのは似ていると思ったのだ。
神を信じるとはどういうことか
神を信じるという行為は、自ら神を信じると決心した者によってなされる。
そこの部分においては主体的と言える。
だから、神を信じている人に対して、「神なんかいないよ」と言っても無駄なんだ。
だって、本人が信じてたいから信じているんだから(笑)。
本当に神がいるかどうかなんて、もはやその人にとっては関係のないこと。
いるかいないか、という思考のあり方ではなく、私は神を信じる、という決心しかないから。
ありがとうという感謝の心に外的な根拠はいらない
信じるという行為に、根拠はいらない。
もっと言うと、自分がどのような態度でいるかには、理由はいらないということになる。
だからありがとうという感謝だって根拠はなくて良いんだ。
自分で決めた態度をとる。
自分で決めた心のあり方でいる。
そういった主体性を、神を信じる人、またそうでなくても感謝の心を忘れない人には感じることができる。
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