ごくごく根本的な質問から入りたい。
あなたの親は誰か?
おそらく、100人中100人が当然、父や母を思い浮かべるに違いない。
しかし、改めて考えて欲しい。
本当の親とは何か、ということを。
生まれてから教え込まれてきた幻想
私たちは、物心が付いた時にはお父さんがいて、お母さんがいて、という環境であり、それが疑問の余地のない、当たり前の前提と思ってきている。
しかし、この人生というものに対して洞察を深めると、これはわからなくなってくるのだ。
まず”私”とは何か?
深く、深く追求する。
私は何々という名前だ。しかし、これは後天的に親から付けられたもので、”私”の本質を表すものではない。
私は日本人だ。しかし、国籍なんて、これは人間の理性的な頭脳が名付けているものであって、この”私”は日本人とは関係ないものだ。
私は人間だ。確かに。人間だ。しかし、この意識は一体何なのだ?突き詰めると、私自身は何かと考えると、どうもこの体ではない気がする。私という意識が、私自身のような気がする。
なぜなら、目を潰されても、耳を聞こえなくされても、手足を切られても、この意識は五体満足であるかそうでないかによって、変化は何もないことが想像できるからだ。
そんな超不思議な存在である”私”の親は、果たしていわゆる父母だろうか。
大元は、やはり、神とも言うべき存在ではないだろうか。
親の言うことだけを聞くな。親よりも大事なもの
創世記 第22章においてこんな記述がある。
アブラハムは息子イサクを生贄に捧げるよう命じられる。
アブラハムとイサクが、神の命じた生贄を行う場所に向かう途中、イサクが父アブラハムに質問する。生贄のための羊が無いじゃないかと。
アブラハムはこう答える。「生贄は神が用意してくださるだろう。」
そしていよいよ目的地につき、アブラハムは躊躇なく祭壇に薪を敷き、イサクをその上に寝かせ縛った。
そしてアブラハムがいよいよ刃物を取り、息子に手をかけようとしたとき、神の使いがやってきて、「子供に手をかけてはならぬ。お前の神への忠誠心は十分理解した」と言って生贄の儀式をとりやめさせた。
これは何を意味しているか。何においても神への信仰、忠誠が絶対だ、ということを表している。
当然アブラハムだって、イサクを愛していたはずだ。
しかし、神が命令したことなら、一切の躊躇もなく、それを遂行できたのだ。
現実世界の親も大事にすればいい。
しかし、大元の大元には、神とも言うべき存在が、私達を恵み養ってくれているということだ。
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