聖書で言われている悪魔についての解釈
聖書の中で書かれている悪魔とは、仏教で言う自我のことだと思う。
そのことについて、実際に宣教師に確認したことがあるからそう確信している。
海外旅行中にフィンランド人の宣教師と会話する機会が昔あったのだ。
そのことについて書いた記事がこちら
宣教師の赤裸々な告白
私がその宣教師に悩みを相談した。
「すぐに神を忘れてしまう。どうすればいつも神を覚えておけるのか。」
これはキリスト教的な文脈で質問したので、別の表現方法で言えば
「すぐに自我に飲まれてしまう。どうすれば自我の見せる妄想をちゃんと妄想と認識し、はまらないで済むか。」
このような形になるかと思う。
その回答として、フィンランド人宣教師は印象的な答えを残したのだ。
「向こうから魅力的な女性が歩いてくるとする。そうすると、私は欲望を抱いてしまう。」
一瞬耳を疑った。
聖職者からそのような告白がなされるとは想像してなかったからだ。
聖職者は特に、そういった邪な感情を感じないものとして、絶対に表に見せないものだと思っていたから。
そして続けて宣教師は言った。
「そんな時私はこう心の中で言うようにしている。
”イエス・キリストの名のものとに命ずる。悪魔よ、立ち去れ”」
つまり、自分に悪い欲望を抱かせたのは悪魔であり、自分が生み出した感情ではないということになる。
聖書の中の悪魔とは、自然界の力であり、重力のようなものだった
では、なぜ悪魔だったり自我だったりが色々と邪な考えを自分に植え付けて来るのだろうか。
これは、最近よくこのブログで述べているように、エネルギーの方向性の問題で捉えればちゃんと片付く。
この宇宙は、エネルギーが一定方向に発生すると、それがその方向に固定化する性質を持っており、その結果恒常的に機能し続ける星による引力や、重力などが生まれる。
そして我々人類の心の中も宇宙の一部分であるから、同じルールが適用される。
私達の心はただ放置しておくと、ノイズが入り、ネガティブな方向に流れるようになっている。
それは重力と同じようなものだ。
その心にかかり続ける重力のことを、悪魔と呼んだり自我の働きと言ったりしている。
庭の草むしりをしないと、雑草でボーボーになってしまうのと同じだ。
私達は心の草むしりを常に行わないといけない。
瞑想をしてみるとわかるが、雑念を振り払っても振り払っても、気づけば雑念に嵌っているのだ。
この繰り返しは果たして意味があるのだろうか?と疑問に思ったりもするが、繰り返す事自体が大事になってくる。
まあ、そこに虚しさを覚えさせるのも、自我の仕業なのだけれども。
悪魔とは重力のようなものだった。
自然の力の一部だった。
しかしそれは人間の意志力で対抗できる。
意思の力を実際に行使しさえすれば。
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