不幸に思える出来事は、神のムチだった

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マインドフルネス

なぜ人生とは辛いことばかり起こるのか。

そして、理不尽にできている。

ビクビクしながら過ごしていた少年時代

自分は小学生の頃、こんな恐怖を抱いて生活していた。

何か突発的な事故や事件に見舞われて、社会という網の目の隙間を突かれて、人生において多大な損害をこうむるのではないかと。

社会というのは、基本的には法律で守られている。かなり網の目のごとく張り巡らされて入るが、時たま間隙を突いたようなアクシデントが起こることがある。

テレビでは、通り魔事件や、住環境や隣人被害で損を受けている話題が取り上げられ、それに大いに影響を受けていたのだ。

道を歩いていて、突然ブスっと包丁で刺されたらどうしよう。

突然車が突っ込んできたらどうしよう。。。

なんとか安全に、社会の傘の下で安全に生きていきたい。

しかし、人生はもれなくレモンをくれる。

神を崇拝していた人物ですら

人を見張るものよ、わたしがどんな罪過をあなたに犯したというのか。何故わたしをあなたの的にし、あなたの重荷にされるのか?(旧約聖書 ヨブ記)

神に忠誠を誓っていたヨブでさえ、神によってこれでもかと言うくらい不幸を与えられる。

思わずこのような愚痴が溢れるのも仕方のないことだ。

ただ単に善行を積んでいるから、悪いことが起きないのではない。

不幸に思える出来事は、神のムチだった

あることに気がつくまで、とことん神は我々に試練を与える。

そこに関しては慈悲がないから、とても恐ろしいことなんだ。

つまり、表面上不幸に思える出来事は、神の恩寵であったのだ。

「わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである」

あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。(ヘブル人への手紙 第12章)

不幸は、神のムチである。

何を試されているか。

神への愛であり信仰だ。

別の言い方をすれば、自ら感情を生じさせることができるかどうかだ。

降り掛かった事象に反応して起きた感情に翻弄されるのではなく、自らが感情の発信源となる。

自らが創造性を発揮し始めるんだ。

しかし人間ってのは、何か理由がないと行動しないのがほとんどだ。

だから感情を向ける対象を定めた。神というね。

神は不滅であり、何が起こってもどんなときでも求めれば、そこにいる。

本当は、ただ感謝の心を持つだけでいいんだけれども、人間ってのはだいたいが理由がないとやらない。

だから神を信じなさい、と教えたほうが早い。

まあ、型があったほうがやりやすく、受け入れられやすいというのもある。

結果、効能は同じだからね。

あと神は、人間の多くの親のように、言って聞かせるより、体でわからせようとするようだ。

それだけ我々は小利口になってしまい、聞く耳を失っている。

目が覚めるまで、神によって思いっきり殴られるしかない。

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