私はこのようなブログを書いているだけに、少なくとも同じように悩んでいる人にとって参考になるような考え方は提供できるという自負みたいなものは持ってやっている。
ややもすれば、この分野に関しては、今後大きく新しい知識を得ることはむずかしいのではないか、と。
しかしそんな私の見識も、まだまだ狭いものだったと思わされるような、認識のパラダイムシフトが数日前に起こった。
知識を得てきた少年少女や、認知症患者のように、人間とは「自分はすでになんでもわかっている」と思ってしまう罠があるようだ。
気をつけなければいけない。
人生に対する以前までの捉え方
私は、今までの自分の人生を、辛いばかりでほとんど良いことがなかったと捉えていた。
そして、私が今日までにしてきた努力とは、辛い人生を自分の力で切り開くための様々な人体実験であったり、猛勉強であったりした。
しかし、それは全く違ったのだ。
今年初めに、私は長年連れ添ってきた彼女を失った。
モデルのような外見で、とても美しかった。
将来の結婚を約束していて、私なりに彼女のために尽くしてきたつもりだ。
しかし、唐突に別れはやってきた。
もともと彼女は気が変わりやすいタイプで、今までもラブラブから翌日には別れ話になるほど機嫌が悪くなってしまったりということは結構あった。
しかし必ず、時間が経つとまた好きな気持ちを思い出してくれて、元の関係に戻ることが常だった。
気まぐれと言っても、私に対しては決して変わらない愛情を持ってくれてたと思ったのだが。。。。
彼女のために尽くしてきた労力と時間、お金などを考えると、数年連れ添ってバッサリ行かれるのは、中年に差し掛かろうとしている年齢の自分にとっては非常にキツかった。
私は確実に年を取り、後頭部は薄くなってしまった。
特に出会いのチャンスもない。
こんな自分で、前の彼女のような、本気で好きになれる美しい女性とまたお付き合いできるチャンスなんてもう無いんじゃないか。
私はビジネス上で成功するのも夢だが、結婚して幸せな家庭を築くこともまた同じくらい夢として持っていたのだ。
その夢が遠ざかってしまったことに、私は大いに焦りを感じた。
最高に幸せな現在
しかし、それから数カ月たった今はどうだろうか。
決して超えられないと思っていた前の彼女を超える、自分史上最高の彼女ができてしまったのである。
またお互いに年齢的なこともあり、将来的に結婚を前提としたお付き合いとなっている。
今は本当に幸せを感じている。
世の中には幸も不幸もないのが真実
私はこの体験から、不幸な出来事は不幸ではないということを学んだ。
世の中には幸も不幸もないのだ。
なぜなら、今までの自分の人生があって、今の彼女に出会えているからだ。
その出来事が一つでも違っていれば、おそらく今の彼女に出会えていない。
前の彼女にも突然捨てられなければ、今の幸せは訪れていない。
だから、不幸な出来事は、不幸なんかじゃない。
不幸に思える出来事を体験しても、打ちのめされすぎないことだ。
運命を呪わないことだ。
この事を「自分にちょうどいい結果しかやってこない」なんて言い方をする人もいる。
それってちょっと違うニュアンスなんだなぁ。
それって自分の能力や器に帰している気がして。
悪い出来事が起こったら、それに見合う自分の器ってことになるじゃないか。
そうじゃないんだな。
一見悪い出来事に見えることが起こっても、事はただ起こっているだけで、出来事が連なって、人生というものが紡ぎ出されている。
将来的に幸福な出来事が起こるにしても、そこにたどり着くまでの1ピースであり、人生の中で必要な出来事なんだ。
くれぐれも不幸に打ちひしがれ過ぎないように。
淡々と、中庸でいれば、きっと良いことが巡ってくるよ。
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