最近ふと
神に感謝をすればいい
という考えが降りてきた。
電車に乗って座席に座っている時に、そんな考えが浮かんできた。
私は電車の中でよくひらめきが起こる。
悟りの境地がわかったのも、電車の中だった。
ひらめきというのは不思議なものだ。
右脳の働きによるものなのだけれども、左脳が顕在意識で、そろばんか電卓だとすると、右脳は無意識で、バックグラウンドで働くスーパーコンピューターのようなものだ。
速読の一つであるフォトリーディングでは、本のページを画像として脳に取り込んだ後、半日か一日くらい時間を置く。
これを熟成と言っていたと思うが、取り込んだ情報をまさに熟成させるかのように、バックグラウンドで理解を進めるのが右脳の働きになる。
日々の活動の中で、顕在意識上で取り込んだ情報を熟成させて、問題解決につながるような答えを、忘れた頃に届けてくれる。
神に感謝することは与える行為になる
それで、今回は神に感謝をすればいいというアドバイスを右脳は自分に届けてくれた。
これは私が自愛を推進していることに対する答えなんだと思う。
愛情不足の人は、自分で自分を愛そうよ。他人から愛情を求めるのではなくて。ということを私は言っていて、実践もしている。
しかし、神に感謝をするとなると、自分以外の他者へ愛情を向けることになる。
自愛は、今実際に寂しい人にとっては必要なことだとは思うが、どうも内向きな姿勢は否めない。
少し前に書いたが、幸せになりたければ、受け取るよりも与えた方がやっぱりいいのだ。
潜在意識の教育のためにも良い
潜在意識的に見ても、自分以外の他者に感謝するほうが良い影響がある。
誰かに感謝をするということは、自分が満たされているからこそできることだ。
つまり、「自分はすでに満たされているんだ」と潜在意識に教育することができる。
自愛にふけっていると、潜在意識には「自分は満たされていない」と教育することになるかもしれない。
でも、本当に愛情不足で苦しければ、愛情は注いでやる必要があるんだよ。
輸血が必要な人に、血液はちゃんと与えてあげないといけないのと一緒で。
神に感謝すると自分も幸せになる
あと、実際にやってみたらわかると思うが、神に感謝をすると、自分の心も幸せになってくるのを感じる。
そう。これも前に書いたことがあるが、感情の出処は一つだからだ。
刺激によって発生した感情も、主体的に引き起こした感情も、出処は一緒だから性質はなんら変わりない。
他者に感謝を送ることで、自分の心にも感謝が灯るのだ。
人に親切をすると自分まで気持ち良くなる理由はこのためだ。
怪しいけど、自分の心に仕舞っておけば良い
神に感謝をすると言うと、戸惑う人が多いと思う。
私もそういう気持ちが無いわけではないが、あえてやるようにしている。
自分のためだと思ってやれば良いんだ。
神とは何かと問われれば、それは自分で想定したもので良いと思う。
そんな疑問を持つ人に限って、神社やお寺では素直にお参りができたりする。
そこに実際に神が宿っているように感じたのであれば、その存在に向かって感謝をすればいいだけだ。
こんなことは自分の心の中に仕舞っておけばいいのであって、別に人に言わなければ怪しまれることなんてない。
過去に、おおっぴらに神への信頼を掲げた人がいて、その人は十字架にかけられて殺されてしまった。
2000年以上経った今も、人間の心は変わってないと思うので、社会的に殺されないためにも不必要なことは言わないほうが良い。
神に感謝することは無限にある
では神に対して何を感謝すれば良いのだろうか。
これはいくらでもあるのだ。
挙げきれないくらいあって、全ての恵みに感謝するという境地になるはずだ。
神というものを想定した時、普段気にしているようなことが些細なものに感じてしまう。
この世界をあらしめてくれること、いや、そんな言葉を考える余地もなく、ただただこの恵みに感謝する。
伊勢白山道さんの「生かしていただいてありがとうございます」と同じ境地だと思う。
何か感謝することがあるから感謝するというのはケチくさい。
無条件で、ただ感謝なんだ。
神への感謝こそが幸せになる方法
その日は知り合いの占い師に話を聞きに言っていたのだけど、話の最後に
「最後は神頼みですね」
と言われて思わずセレンディピティーを感じてしまった。
右脳は不思議だ。
いずれその人ともブログを相互リンクできればいいなと思う。
神に感謝をすることが右脳のアドバイスだったが、確かに自分に愛情を注いでいるよりも、幸せ度合いが半端なくなる。
ぜひ、自分の心の中だけの話なので、恥ずかしくないので実践してみてほしい。
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