利己的な目的は持たないほうが良いのだろうか?
よく夢を叶えるためには、その夢は自分よりも大きな存在に貢献する内容を描くべきだ、みたいな言われ方があると思う。
お金持ちになりたい、結婚したい、という利己的な目的よりも、周囲の幸せに貢献するような目的を持ったほうが、その夢は叶いやすいという風に言われる。
そのような傾向は、確かにあるんじゃないかな、とは思う。
では逆に、利己的な目的は持ってはいけないのだろうか?
自分の気持ちの奥底を探索してみた時に、どうしてもそういった利己的な隠せない思いが現れてくるならば、その気持ちが消せないならば、無理やり利他的な目標を描いても胡散臭くなる。
その自分の中から出てくる自然な思いは、持っていていはダメなのだろうか?
本心から願っているなら、利己的な目的でも良い
私はダメじゃないと思う。
心の底からそう願うなら、自分の幸せのために夢を描いたって全然いいと思う。
だって、自分を幸せにするための思いは、本当は利己的とは言えないからだ。
その理由を説明する。
自分を見ている自分、というのが存在する。
それを自分1と自分2と分けるとする。
言い直すと、自分1を見ている自分2、ということになる。
この場合、自分1は自我であったり、自己イメージのようなものになる。
自分2は冷静な意識、主体的な意識、魂、本当の自分、である。
自由気ままの状態だと、人間は通常自分1と自分2をごちゃまぜにして考えている。
もしくは、自分2の存在を認識していなくて、自分は自分1だと思っている。
例えば、自分自身を成り上がらせたいと願っているとする。
自分にはそれだけの資質が十分備わっているとわかっているし。
冷静に自分を見つめた時に、その責任感を抱いているのは、透明な意識である自分2の方ではないかと思うのだ。
私はこの人間に魂として宿って地球上に生まれてきている。
この人間を成り上がらせてやらなければならない。
それがこの人間を担当している、宿った魂としての責任だ。
そう考えると、これは利己的とは言えないのではないか。
自分2と自分1は運命共同体ではあるけれども、あくまで別存在なのだから。
むしろ”利他的”とまでも言えてくる。
利他的も利己的
また、それとは全く別の観点から見てみると、すべての大本の目的は利己的と言えてしまう。
表向き利他的に見える目的も、本人の幸福のため。
彼らは、他者に貢献することで、自分が幸せな気持ちを得たいがためにそうしたいと欲するのだ。
結論としては、抗えない目的を持ってしまったら、自分の気持ちに嘘をつかず、利己的であろうが、利他的であろうが、その目的を掲げて邁進しても良い。
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