嫌いな人は気にしないでおくべき
身の回りに嫌いな人ってのは必ずと言っていいほどいるものだろう。
また、日常のストレスのほとんどが、嫌いな人との人間関係に費やされているなんて場合が多いかもしれない。
当事者にとって、その嫌いな人は生活上の大問題に思えるのだけど、もしそうだとしてもあまり気にしないようにするべきだ。
嫌いな人を気にしないでおくべきなんだ。
そんなことに、あなたの大事なエネルギーを注ぎ込むべきではないし、嫌いな人に対して思い悩んでいる時間ももったいない。
なぜ気にしないでおくべきなのか。
今からその理由を説明する。
嫌いな人という個人は、あなたの脳内が作り出したイメージ
なぜなら、ストレスを感じている”自分”なんてものは本当は存在しないし、ストレスの元となっている”他人”も、本当は存在しないからだ。
自分がいて他人がいる、というのは我々が当たり前に信じていることなので、最初はこれを聞いても受け入れられないかもしれない。
しかし冷静に突き詰めていって、科学的に考えれば考えるほど、自他というものは存在しないというところに行き着いてしまう。
私達人間は、この世界を概念によって切り分けて、物事を理解し、物を見ている。
あれは木だ。あれは花だ。あれは鳥だ。というように。
あれは木だ。と言った時に、そのような”木”は実際には存在しない。
幹があって枝が生えていてそこから葉っぱが生えていて・・・という木の特徴を持った一般的なイメージを心の中で抱いていて(これが概念)、そのイメージに該当する物体を木と呼んでいるだけだ。
人間は世界から切り出してきた概念に対して、名前をつけることで頭の中で取り扱うことができる。
前頭前野が高度に発達した人間だけができる抽象的な思考である。
そして、自分や他人というのも、頭の中の概念に過ぎない。
確固たる自分がいて、無数の他人もいると信じ切って生きてきた人々からすると、その洗脳は強烈で、自分や他人がいないと言われてもすぐには信じられないと思う。
本当は、この世界のあらゆることは自然に沸き起こり、常に変化し続けているだけなのだが、そこに理由を求めたがるのが人間の思考なんだ。
この世界がある理由なんて無い。
すべての物事は、ただ単に起こり続けているだけだ。
人間に関して言えば、自分という主体的な存在がいて、考えを抱き、行動を選んでいると考える。
しかしそれは人間の脳なりに、この世界に起こる現象を解釈したまでのことであり、”自分”は脳内の概念でしかなく、考えや行動を主体的に選んでいるわけではまったくない。
考えはただ起こり、そこに行為があるだけである。
最新の脳科学でも証明されていることだ。
腕を動かした時の脳の活動を調べた実験によると、脳が「動け」と司令を出す前に、腕を動かす筋肉が活動していることがわかったのだ。
私達は、自分の意思で思考し行動していると、思わされているだけなんだろう。
ただの感情がそこに生まれている
だから、嫌いな人がいたとしてもあまり自分の感情を気にしないでおくべきだ。
嫌いな人からストレスを感じると、それを自分がストレスを感じていると受け取ってしまうはず。
しかし実際は違うのだ。
自分は想像の産物なのだから、苛立ちや怒りといった感情が生まれる、ということだけが起こっているんだ。
人間の脳からすると、起こったことに対して自分ごとに捉える癖がついているから、あたかも自分の感情としてそれは起こったのだと認識してしまう。
事実は、感情は自分のものではない。
ただ、感情が沸き起こっているというだけだ。
嫌いな人の中に、主体である意識はない
そしてまた、ムカつくように見える嫌いな人も、意思の主体は存在しない。
ムカつくべき相手なんて、あなたの脳内イメージに存在するだけで、実際はそこに存在していないんだ。
行為の原因となっている行為者は存在しない。
あらゆる物事は、常に変化しながら絶えることなく起こっていて、その一部としてあなたの嫌いな人が苛立つような言動を取っているだけだ。
人間の理解とは、とりあえずでこの世界を解釈しているに過ぎないわけで、その理屈や理由というのも人間の脳内にしか通用しない代物だ。
真相は、ただ物事は起こっているというだけのこと。
しかし、そうは言っても感情に巻き込まれてしまい、嫌いな人を気にしないわけにはいかないよ!という意見が出てきそうだ。
我々は物心ついてからずっと、今の今まで感情の自己同一化を脳内で繰り返し繰り返しやってきたので、強固な習慣になってしまっているんだ。
だから、急にそれをやめようとしても難しいと感じてしまう。
感情が現れてきた刹那、私達は自分ごととしてそれを捉えて、そのイメージの中ではまり込んでしまう。
まるで意識がフックされてしまったかのようだ。
まずは、感情に巻き込まれていることに気付くことが必要だ。
気付けたら、その、今起こっている感情を見てあげる。
見ることで、感情に自分がフックされていたものを、距離的に離してあげることができる。
感情を、ただ感情として味わってあげる。
そうすると、あなたは感情の支配から解かれる。
そして、その感情はすぐにどこかに消え去ってしまうのをあなたは目撃する。
しばらくするとまた同じ嫌いな人への感情が沸き起こってくると思う。
そしたらまたその感情を見てやるのだ。
何度も何度も、繰り返し繰り返しそれをやってあげる。
そうすると、
「一体なんなんだこの繰り返しは。これって意味があるのか?」
という虚しい感情が沸き起こってくる。
また、やってることへの意味を求める自我の仕業だ。
その感情に同一化してしまわないように。
この感情もまた、自分と切り離して、感情単独にしてあげた後に見てあげるのだ。
この反復作業はやめることはできない。
私達はこの体や心が存在した上で成り立っているので、自分という虚像を作り、何でも自分ごとに捉えるという心の機能からは逃れることはできない。
また、疲れてIQが下がってくると、脳が省エネモードになり、自我に抗うことが難しくなってくるが、そんなときでも自我の勝手にはさせてはならない。
争いごとは疲れている時に起こりやすいというのは、そんな理由からだ。
まとめ
嫌いな人を気にしないようにしよう。
なぜなら、あなたの意識のエネルギーを無駄遣いすることになるからだ。
自分がいて、他人がいるという脳内の物語を信じて、そのためにエネルギーを費やすのは、不毛なことでしか無いんだと気づこう。
実際にはこの世界には”個”という存在はない。
区分のない全てが、ただあるというだけだ。
個が存在するのだとしたら、それは人間の脳内のイメージの中だけの話だ。
嫌いな人は実際にはそこに存在しない。
主体となっている行為者はいない。
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