自分のいないこの世界において、どう生きたらいいのか
もしあなたが、自我が見せるフィルターが外れた、ありのままの世界を垣間見たことがあるのなら、本当は自分などいないと理解できてしまったかもしれない。
世界とは、自分も他者も存在せず、ただ”ある”というだけのことであるとわかってしまった。
しかし、あれだけ望んでいた悟りに一瞬だけでも入れたというのに、また元の日常世界で生きていくにあたって虚無感に苛まれてしまうことがある。
大事にすべき自分など幻想であるならば、この世界において一体何を望めば良いのか、何を目指せば良いのかわからなくなってしまう。
もう、自分の好きなように生きることができなくなってしまうのだ。
好きなように生きる、悟りから離れた状態のほうがよっぽど幸せだったのではないか・・・
これは悟りの境地を一瞬だけ垣間見た、本当は悟っていない人間が陥りやすい罠だ。
この世界に自分はいないし、目指す意味など何もないとわかってしまった後においても、やはり人生は、好きなように生きるべきなんだ。
いや、世界の真実を知れた後だからこそ、より一層、好きなように生きることができるようになる。
そのことについて、今回は説明しようと思う。
悟った後も好きなように生きるべき
悟りを知った後においても、なぜ人生は好きなように生きるべきなのか。
あなたは自我が見せるフィルターが外れた刹那に見た、自分の思い込みが入っていないありのままの世界を見つめることができた。
その幻想の霧が晴れた真実の世界は、今まで当たり前にいると信じていた自分自身は存在しなかった。
自分が実は存在しないという事実を、あなたは頭で概念として理解した。
そこから間違いが発生してしまったのだ。
普段のマインドベースの世界に戻ってきた時、あなたはせっかく理解したはずの「自分はいない」という事実を概念としてだけ取り扱って、今までどおりの自分ベースで物事を考えてしまった。
自分は本当はいないのなら、どうすればいいのだろうか、何を望めば良いのだろうか、と。
そうやって悩んでいる自分は、自我にまみれた今までと変わらない自分なのだ。
そうではなくて、「自分はいない」という事実は、自分を制限させるものではなく、開放するもの、好きなように生きることを許してくれるものだと思う。
つまり、自分の好きなように生きるとしても、自分は存在しないのだから、マインド上では自分が決めたと思ってもそれは自分がやったことではないのだ。
自分はいないという事実は、自分が決めてはならないという制限にはならないということだ。
だから、今までどおり、むしろより一層、好きなように生きるべきなんだ。
その行為を決めたと思ったはずの自分なんて存在しないのだから。
なぜこんな勘違いが起こるかと言うと、私達の意識は脳の仕組みの中でしか働けないからだ。
悟ったとしても、自分がいるという感覚からは逃れられない。
それが幻想なんだと、一瞥体験を通じて頭で理解できたとしても、普段の日常では相も変わらず自分自身と付き合っていくことになるから。
だから、私達は、自分がいない状態を気付きのなかで維持することはできない。
何一つ確かなものなど見つからなくても
この尾崎豊の歌詞のように、この世界には確固たるものなど何もないと気づいてしまった人は、捨てられない自我の中で、生き方に迷い苦しむ。
この世に意味がないからと言って、最終的に自暴自棄になってこの世から去るのは非常にもったいないことのように思う。
好きなように生きることを避けてしまった私の例
私自身も、電車の中で流れる風景を見ていた時に、マインドが見せる幻想が外れたありのままの景色が目に飛び込んできて、悟りを経験した。
自分もいない、他者もいない、ただ物事は起こり続けているだけのことだとわかった。
そこは人間が大事にしているあらゆる意味というのもない世界だった。
私自身、悟りたいと願い、悟りを追求していたのだけれども、悟りを経験し、またもとの自分へと戻ってしまうと、私達が普段頑張って目指しているもの全てに無意味さを感じてしまうようになった。
お金持ちになりたいと願い、無理をしてでも収入を増やす努力をしていたとすると、そこに意味はないと気づいてしまっているのだから、今までどおりの頑張りを費やすモチベーションが失われてしまう。
じゃあ何を目指せば良いのかと立ち止まるのだけど、もはや意味のないこの世界において、一生懸命こだわる必要のあるものはなくなってしまった。
しかし、本当はそういうことではなかったのだ。
自分の中のピュアな欲望に忠実になっても良かったのだ。
金儲けがしたいと望むなら、思う存分やってみればいい。
金儲けがしたいと望む自分など、いないのだから。
単にそういう望みが起こっただけ。
やりたいと思うことは何でもやってみればいい。
それが悟りの後に幸せに生きる秘訣かもしれない。
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