宗教での祈りの効果
宗教における祈り。
教会で祈りにふける敬虔な信者。
はたまた、神社で手を合わせてお祈りをする姿。
キリスト教と神道では少しタイプが違うかも知れないけれど、祈りとは実際的な行動であり、祈る分の時間が当然必要になるのは一緒だ。
祈る対象は、神であり、神道であれば、偉大なる何かとでも言えるだろうか。
祈ることで、心が落ち着き、幸せな気持ちになれるという。
デール・カーネギーの「道は開ける」でも、悩みには祈りが効果的であると書いてある。
瞑想と祈りの違い
瞑想と祈りは似ているけれども、少し違う点がある。
瞑想はなるべく何も考えないように心を維持するものだけれども、祈りはそうじゃない。
祈りは、何か自分以外の偉大な存在に対して熱心に意識を向け、愛情や感謝、好意などを示すものだ。
瞑想と祈りは、どちらも集中状態に入っているというのは同じだ。
瞑想は無思考状態の維持に集中し、祈りは祈りに集中している。
そんな祈りだけれども、自分以外の存在に対して愛情を向けることで、自分自身が満たされてしまう行為なんだ。
宗教が人を救う所以である。
祈りで幸せを感じられる理由
なぜ他に愛情を送っているのに自分が幸せになれるかというと、結局この宇宙で、感情を生成できる装置はあなたの心だけだからだ。
この私達が生きている宇宙は、主観的宇宙しか実際には存在しない。
つまり私達個々の目から見える形の宇宙しかないという意味だ。
一つの宇宙があって、私達個人が暮らしているとする客観的宇宙は、私達の頭の中にしか実際には存在しない。
だから、あなたが他者へ送ろうとも、自分へ向けようとも、とある感情を抱いたならば、それがあなたの心に発生し実感するだけだ。
優しさを他人に向けたら、あなた自身が優しい気持ちになれるのだ。
寂しい思いをもし抱いているのなら、愛があなたの中に足りないのなら、あなたの心の中に愛を発生させれば良い。
理屈はあなたを癒やしてはくれない。
この文章を読んでいただいただけでは、救われないんだ。
誰かがあなたを癒やしてくれるわけでもない。
あなたの心は、あなた自身が温めなければいけないからだ。
実際に心に愛が発生することをやろう。
他人に愛情を注いでもいいし、あなた自身に注いでも良い。
どちらにしても、同じようにあなたの心に愛が満ちるからだ。
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