繰り返されるいじめや差別
酷いいじめが起こった後に、いじめは駄目だといくら反省したとしても、また時間が経てば必ずどこかで発生する。
なぜなのか。
差別だってそうだ。
社会的に、差別は良くないことだと叫ばれても、未だに依然として存在している。
人間の心にかかる重力
私が考える理由をここで説明したい。
それは、基本的に人間は自分より劣っている人間を作り出し、標的にいたぶることで快感を得るような性向があるからだ。
それは基本的性質であるから、重力のように、私達人間の精神に常にいじめや差別をしたくなる力が加わっている。
木からりんごが地面に向かって落ちる自然さで、私達人間はは放っておけば醜い精神を発揮する。
人は生まれながらにして悪であると言えるかも知れない。
意志の力を発揮する人々
しかしながら、全員がいじめや差別に加担するわけではない。
いじめや差別を頑張ってなくそうとする人間もいる。
そういった人々の精神はどのようであるのか。
差異を嫌い否定したくなる精神は、人間が持つ基本的性質であるが、彼らは自らの意志の力を発揮している。
自分で自分の心を矯正する力、または思いを抱く力を持ち合わせている。
また、自分には心のあり方を決める自由があると知っている人々である。
心は放って置くと醜い感情が映し出される。
そのような心の重力が働いている。
「思ってしまうのは仕方がない」という言葉がある。
この言葉を信じる人は、自分には心の自由がありませんと、白旗を揚げているようなものなんだ。
部屋は時間が経つと汚れていくように、庭は手入れしないと雑草が生えてくるように、心も何も手を加えなければ腐っていく。
なぜ、反発しないのか。
部屋は掃除をするのに、なぜ心は手を加えないのか。
心に思ってしまうから仕方がない、は怠惰である。
いじめや差別がなくならないのは、意志の力を世が伝えてないから
いじめや差別を本当になくしたいのなら、万人に心の自由があるということをしっかりと社会が言っていかなければならないと思う。
でなければ、ただいじめはいけないこと、差別はやめるべき、と言ったところで効果はない。
心に浮かぶ差別心は相変わらず人間の心の傾向として残り続けるからだ。
意思は自分で作れるということを社会の大人たちがちゃんと言っていかないと、それがわからない人たちは自分で気付けないんだ。
でも、現状は多くの大人たちですら、意思の力を発揮することを知らない。
意思を持つ人と、持たない人の格差があるんだと思う。
ちゃんとポイントとして把握し、人間は意志の力を行使できるということを、伝えていこうではないか。
それが本当に広く行われるようになったなら、世界から争い事がなくなるのは夢物語ではなくなる。
私は微力ながらブログを通じて伝え続ける。
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