「悟り」とは何か
「悟り」とは、悟りを体験し、理解し、人に説明できるようになること。
悟った者は、過去から現在まで自らの言葉を通じて、悟りの道を広めようとすることが多い。
また、理解しているのだから、再現性があって、自分が望む時に悟りの状態に入れること。
覚者にもレベルがあって、レベルが高いと、常に悟りの心境でいることができる。
イエス・キリストや老子、ゴータマ・シッダールタは最高位に当たるだろう。
一方で、スピリチュアル系の中には、本当に悟ったのかな?と疑問に感じる者もいたりもする。おそらく、悟りを体験したのは本当なんだろう。それをどれだけ自分のものにできるかはまた別問題だと言うことだ。
至高体験に遭ってから、また次の修行が始まると言ってもいい。
至高体験に出会うことは、例え聖者じゃなくとも起こり得ることだが、普通の人間はその体験を価値の無いものとして忘れてしまったり、また、たまたま偶然訪れた体験だったため、自分の努力でもう一度体験しようと思っても二度と起こらない。
人間の脳は「忘れる」という機能を持つ。
どんなに強烈な体験をしても、月日が経てば、記憶が薄らいでいってしまうこともある。
ではどうやったら悟れるのか。
悟りの瞬間が訪れるのは運命のようなものだが、私は、悟りを求めなければ悟ることは出来ないと考える。
悟りを求め、祈ったり、修行を重ねる人のほとんどが、一生の間に悟れずに亡くなっていく。
だから、悟りの一端でも垣間見ることができた者は、本当に幸福であり、運命や、そういう運命を与えてくれた神に感謝するだろう。
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