誰しも心の傷の一つや二つはトラウマとして持っているものだと思う。
私だってもちろんある。
私の場合は母親であるが。
これから言う話は道徳的な見地からは外れている部分もあるかもしれない。
万人に受け入れられる話ではないことは最初に述べておく。
親から受けた心の傷は今でも続いている
実家に帰って泊まると、夜中に悪夢を見て悲鳴を上げてしまうのだ。
ちなみに普段はそんなことなど一切ない。
潜在的に、根深いところに心の傷が埋まっているのだろう。
悲鳴を上げた瞬間、隣から思いっきり壁を叩く音が聞こえた。
母親である。
「どうしたの?大丈夫?」
もしこんな風に母親が心配する言葉をかけてくれたら、どれだけ心が休まるか。
しかし現実はこんな子として普通の期待も踏みにじられてしまうのである。
一人暗い部屋でとても寂しい気持ちになったが、幼い頃からそんな親から逃げられない状況で暮らしていたために、いろいろな心の歪みが自分に生じていると感じている。
とりあえず義理は果たす
しかし親は親であり、私としては義理でもって関係を続けるようにしている。
”親は大事にしなければならない”
”親には感謝しなければならない”
”家族はかけがえのないものだから、なんでも相談し、わかり合わなければならない”
こういった世間的な常識は、自分を責めるものとして長年私を苦しめてきたが、ある時からいい意味で諦めを持つようになった。
なるべく距離を保ち、1年に1回くらいは義理として顔を合わせるようにしている。
泊まりの提案をされても、今は丁重に断るようにしている。
その距離感のほうが、お互いに傷つかなくて済み、表面上良好な関係を維持できると思っている。
私がこんな風に思っていることは、親は知る由もないだろうが。
道徳的な見地がさらに自分を苦しめる
”育ててもらった親には感謝をしないといけない”
世間的にはこういう道徳をよく使う。
確かに育ててもらった。
大学まで通わせてくれて、それは大きいに違いない。
しかしだからといって、私が親によって心を傷つけられた事実は消すことはできない。
というか、”親に感謝しなければいけない”という思いと相反する、親を恨む気持ちを握りつぶすために、心に歪みが生じる。
親を恨む気持ちも、自分の心から生じた確かな気持ちである。
その”私”の感情を信じないことで、弊害が出てしまった。
自分の考えることは間違っている、とね。
自分の思う気持ちよりも、世間の考えの方が正しいとね。
自分の想いを聞けなくなった時に自信を失う
人間の心は、まずは自分自身を信じることから始まる。
自分の生んだ思考や感情が嘘であるとか、いけない考えであるとか、そんな捉え方をするから自信をさらに失う負のループに入っていくのである。
まずは自分のありのままの感情の訴えを聞くこと。
思ったことは事実、思っているのだから。
まずは自分の中にある様々な想いを昇華させてあげないと、その先に進もうと思ってもうまくいかないものだ。
あなたを支える人間は、究極的にはあなただけだ。
あなたの味方はあなただけだ。
死刑になったオウム事件の犯罪者だって、国が弁護人を付けてくれるのに、なぜあなたは自分を守ろうとしないのか。
自分の思いを訴えてはいけないなんて、思ってはいけない。
聞いた上で、どうするかは決めればいいじゃないか。
自分の心の声を無視してはいけない。
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