自信の大切さは、何度言っても言い過ぎにはならない。
自信がなければ、その人の可能性を殺してしまうことになるからだ。
人間とは、どんな人であっても可能性を持って生まれてくるんだと思う。
しかし成長過程で、適切に自信を育むことができないと、その可能性を発揮できない体質になってしまう。
だから、人の自信を失わせるようなことをするのは、犯罪に等しいとすら思う。
過去の自分は 、自分で強みを潰していた
自分の強みは、ひらめき豊かなところだと思っている。
ちなみにこれは、人より秀でているという意味ではない。
例えばゲームの能力値の中で、どれが勝負できそうか、と言う意味なので念の為。
しかし、過去を振り返ってみると、決してひらめきが豊かな方ではなかった。
ひらめきを大事にするようになったのは、社会人になってからだ。
成人してからでも、自分の強みを見つけられるというのがわかり、勇気付けられる気にもなる。
しかしそれまでの人生では、その自分の強みが埋もれてしまっていたわけなのだ。
自信がないことでひらめきを認められなかった
学生時代の自分は、自信が全くない人間だった。
自分の考えはいつも間違っていて、他人の考えの方が正しいと思っていた。
馬鹿な考えだと思うかもしれないが、当時は本当にそう信じていた。
ふとしたアイデアや、何かについての感想を抱くことはもちろんあったのだけど、その刹那、自分の考えることは間違っているのだからと、自分の手でその考えを追いやってしまっていたのだ。
自分には考える能力が低く、何かを思いついてもそれは間違っているに違いないと思っているのだから、そこから自信が芽生えるきっかけなど出てくるわけがない。
この思考の癖で、10代から20代の前半まで、地獄のような人生だったし、様々な面で損失を被ってきたと思う。
時々は勇気を出して、自分の考えを表明してみるのだけれども、他人というのは、特に子供はそうだけども「ちげえよ!俺の方が正しい!」という脊髄反射のような反応が返ってくる。
その反応を聞くと、また間違ってしまったと感じ、自分を責める気持ちと恥ずかしさで、黙って意見を引っ込めるのだった。
こうやって書いていても、当時を思い出してとても辛い気持ちになってくる。
このようなセルフイメージを持っていると、イメージ通りの自分を自ら証明するようになるのが怖いところだ。
そうやって考えに価値のない自分という、自他ともに認めるイメージが固まっていく。
ひどい時は、友達同士の会話の中で、自分が何か意見を言っても誰も反応せず、同じことを他の誰かがすぐ後に言った時は友達が沸くと言った、おかしな状況も見られた。
自分の考えを大したものじゃないと思ってしまう
ひらめきとは、自分の中から生まれてくるものであって、自分を肯定できてないと捕まえようと思わない。
自分の考えに価値がないと思っていたとしたら、せっかくひらめいたことでも、気のせいや勘違いとして処理してしまい、時間の経過とともに忘れられてしまう。
ひらめきこそが、本当の自分を発見する手がかりとなったり、自分の情熱を見つけるヒントになったり、問題解決の手がかりとできる、人生にとって最大限活用すべきものなのに、自信が育ってないことによって、自分の手で、その可能性を摘み取ってしまうようになるのだ。
自分の価値を認められない原因とは、自信や自己愛の欠如
自分を殺す負のループから、ひらめきを大切にしてそれを人生に生かしていく正のループへと転換できたことで、小さな成功体験の積み重ねにより、自信も徐々に蓄えられていった。
自分という素材を活かして活躍していくには、ひらめきが大事だということに気付いてから、そこに意識を集中して、一つたりともひらめきを逃さない生活を送っている。
このように自信とは、人が生きていく上で最も大事なものであり、自分の才能を伸ばしていく上での土台となるものだ。
自信は、自己愛とも言い変えることができると思う。
私は親の言葉によって自己肯定感を喪失し、自分の価値を認められない屈辱にまみれた少年時代を過ごしてきたが、だからこそ、今は他人を傷つけるようなことは言えないし、言いたくないと思ってしまう。
人の自信を傷つけることは、犯罪だと思っているから。
自信を失わせることは、飛べない鳥にしてしまうということだから。
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