自分とは何かと問い続けている
自分とは何かという問いを持ち続けている。
掴みかけても、するりと手からこぼれ落ちるようなもので、すぐに見失ってしまう。
3年前くらいに電車の中で、おそらく至高体験と呼ばれる経験をして、自分は本当はいないという感覚を知れたけれど、そのことが過去の記憶となってしまうと、ただの知識となり、今現在の生活には活かせてない。
結局、今の自分が幸せにならないと、どんなことを経験したとしても意味がない。
刺激と反応の間にはスペースがある
ところで、私が好きな本である7つの習慣の中で、刺激と反応の間にはスペースがあるという原則が紹介されている。
人間は外部からの刺激に反応するだけの存在ではない。
パブロフの犬の理論は人間には当てはまらない。
人間の意識の刺激と反応の間にはスペースが存在し、自分の意志で行動選択する余地が残されているんだと7つの習慣では書かれている。
私は、その刺激と反応のスペースこそ、”私”の本質に近いものではないのかなと思ったんだ。
そして、「刺激と反応のスペース」は、刺激が起こった時に立ち上がるのではなく、常に存在しているものなのだ。
「刺激と反応のスペース」という言葉にとらわれて、そう思ってしまっていたが、言葉自体のイメージに引っ張られないように気をつけないといけない。
人間は生まれながらに自分という自由を手にしている
刺激と反応のスペースは、常に存在して、それこそが本当の私に限りなく近いものだ。
昔、若い頃にそれを「自分の中の絶対不可侵」と表現したことがある。
確かに、刺激と反応のスペースは、誰からも触れられることができないし、今以上に増やすことも、減らすこともできず、傷つけることもできない。
命そのものと言っても良いかも知れない。
両目を潰されて、手足を切り落とされても、以前と変わらずに、刺激と反応のスペースは、自分の中の絶対不可侵は存在し続ける。
日本国憲法第19条で、思想及び良心の自由は、これを犯してはならない、とあるが、本来ならば、制限のかけようが無いものなのだ。
なぜなら、もともと私達の本質は、自由な存在なのだから。
もしくは、憲法第19条は、人間の本質を明文化しただけなのかもしれない。
自分とは、刺激と反応のスペースであり、それは絶対不可侵領域であるから、本質的に自由なんだ。
自我は自分ではない。
感情の揺れ動きは、あなたの本質ではない。
あなたの乗り物である人間の性格が、あなたにビンビン伝わってくるだけで、それに対して影響を受けないようにすることがあなたにはできる。
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