もし命が絶たれても、もういいかなって、今なら思えるかもしれない。
死ぬ直前まで足掻くかもしれないけど、もう命が尽きる直前になったら、観念して静かに死を待つかもしれない。
辛いこと、悲しいこと、本当にいろいろあったから、あの世に行くことになるなら、もういいかな。
やっと楽になれる、そんな感じかもしれない。
こう思えるのは、今が安全だからかもしれない。
もし銃を突きつけられたら、必死で命乞いするのかもしれない。
そんなことを考えてしまう位、なんだか疲れている。
他者は自分の作った幻想か
他の人は、そんな風には思わないのかもしれない。
てか、他の人なんてわからない。
他の人の人生と言うものが存在するかどうかもわからない。
存在するかもしれないし、存在しないかもしれない。
真実かどうか証明できないのだ。
前に、私は彼女にこういったことがある。
「君は本当はいないのかもしれない。意識のある人間は俺だけかもしれない。」
そしたら、彼女はこう返事をした。
「私は、いるよ。」
そう相手が言っても、真実は闇のままだ。
そういう意味で、人生とは孤独なものだ。
他者がいるというのは思い込みで、本当はこの世界は自分1人だけなのかもしれないのだから。
他者というのが幻想なのだとしたら、自分と言うものもまた幻想に違いない。
この世という現実は幻想に過ぎないが、自分という幻想とは付き合っていかないといけない
しかし、この自分と言うクオリアはとてもとてもリアルで、無視するって言う事はできないね。
生きている間は、これと密接に関わっていかなければいけない。
生きると言うのは疲れることだ。
でも、この辛さを分かち合う相手というのはいない。
私は誰に向けてしゃべっているのだろうか。
誰もいないかもしれないのにね。
ちょっとした遊びのようなものなのだ。
人生とは空であり、幻想なのだから。
とにかく、この世界は不思議なものだ。
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