真実はいつだって一つしか無い。
人は希望的観測を持って思考停止したがるが、そうやって怖いものを見ないで避けていたって、真実というものは必ず存在するものなのだから。
人間は、役割や関係性の中で生きている。
上司、部下、先輩、後輩、仲間。
家族、親、子供、兄弟、嫁、恋人。
それは、いちいち生身の人間同士のぶつかり合いにならなくて便利なところもあるんだけど、玉葱の皮を剥いていけば最後には生身の人間にたどり着くということを忘れてはいけない。
そう。
関係性の中で、決してあぐらをかいてはいけないのだ。
向き合うべき時には、ちゃんと向き合うべきなんだ。
関係性の上にあぐらを書き続けたならば、おそらくその関係性の中身は腐っているだろう。
「家族だから」「親だから」で向き合うのを避けるのはズルい
私の両親は「家族だから」「親だから」という印籠を頻繁に使う。
一般的な親はどうなのかまでは断定できない。
あくまで私自身の場合として、例を挙げてみる。
私が起業しようと考えていると言うと、親は猛反対する。
失敗したらどうするんだとか、親なら言いそうなことを全て並べて反対してくる。
私は私で起業の決意を話すのだが、向こうも段々言えることがなくなってくると、関係性を持ち出してくる。
お前の親だからこんなに心配してるんだぞ!
家族は私達だけなのよ!
私にとっては、それはズルい一言なんだ。
関係性に甘えているように感じる。
そして、その言葉を持ち出した瞬間に、議論の深まりがそこで途絶えてしまう。
親だから息子がリスクを犯して起業することに賛成できないなんて、全然ロジカルではないじゃないか。
「家族だから」という言葉を使うことで、一つにまとまらなければならないと言うならば、それもまた関係性に甘えて努力を怠っていやしないか。
うちの親の場合は、関係性を持ち出した瞬間に、私という一人の人間に向き合うことをやめる。
向き合うことをやめて、「私達の息子」という、彼らのマインドの中の人間に語りかけ始めてしまう。
私自身を見なくなる。
しかし、真実は一つなんだ。
私は変わらない。
恋人ならこうあるべきだ、というのも独りよがり
そうは言っても、私自身もまた、関係性に甘えてしまう部分はあるのかもしれない。
恋人には特にそうかもしれない。
付き合っているのなら、LINEは返すべきだとか。
連絡をとりあうのを億劫がるべきじゃないとか。
恋人なら、どうしているか知りたいと思うのが普通だから、連絡を面倒臭がるなんてあり得ないと思ってしまう自分がいる。
いくらLINEを打つのが面倒だからって、用がある時しかLINEしないで欲しいだなんておかしいと。
好きな気持ちがあるなら、面倒さを上回る、相手とコミュニケーションが取りたいという気持ちがあるはずじゃないかと、私は思ってしまう。
しかしそれは良くなかったかもしれない。
付き合っている相手がどういう心境でいるのかを、ちゃんと見ていかないといけない。
もし、気持ちが冷めて連絡が億劫になっているのだとしたら、付き合っているのにLINEの頻度が落ちるのはおかしい!と怒ってもしょうがないじゃないか。
真実を見ないで、ちゃんと相手に向き合わずに関係性に甘えていたら、お互いの気持ちの隔たりがどんどん大きくなってしまうだろう。
関係性に逃げずに相手の気持ちと向き合う姿勢を持つ
真実はいつだって一つしか無い。
相手を一人の人間として、しっかり向き合う姿勢を持とう。
関係性に向き合わずに逃げ込むのは、そこで思考がストップできるし楽なのだけど、その瞬間に相手の心という真実が見えなくなってしまう。
関係性の上にあぐらをかくな。
あなたはそれで安心できるけど、相手の心という真実は、何も変わっちゃいないのだから。
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