自我と自己の同一視
人は皆、幼い兄弟を連れながら生きているようなものだ。
あなたは幼い兄弟の手をつなぎながら、もしくはおぶって、日常を生きていると考えてみて欲しい。
幼い兄弟はしょっちゅうぐずったり、寂しくなればかまって欲しいと駄々をこねたり、とにかく仕事で忙しいあなたに世話を焼かせようとする存在だ。
しかし、あなたはそもそも幼い兄弟を連れていること自体に気づいていないかも知れない。
あなたは自分一人で生きていると信じ切っているかも知れないのだ。
しかし、真実は違う。
あなたの中には、もう一人の幼稚な人格が息づいている。
それを一般的に自我と呼ぶ。
普通に生きている人々は、自我の心の動きを自分のものだと捉えてしまっている。
幼い兄弟が怒ったり、悲しんだり、嫉妬したりした時に、連動して自分本体も心が動いてしまうのだ。
自我は愛を常に欲している存在
自我とは、子供なので甘えん坊さんであり、愛情を欲しがっている。
愛情の提供を求めるし、また愛情が減ってしまいそうな時はとにかく抵抗する。
自我の心の動きはそれが全てと言っても良い。
例えば、愛が満たされることとは、楽しいこと、気持ちのいいこと、安心できること、人から信頼されることなどであり、愛が失われることは、悪口陰口を言われること、無視されること、評価が下がること、損をすること、疲れること、怒られること、面倒くさいことなどである。
それら全てが、高い抽象度から見れば、愛が減ったり増えたりで表現できる。
「愛が減らされちゃ嫌だ!」と幼子が泣きわめく時、あなたも一緒になって動揺しているというのが現実なんだ。
自我と自己を切り離せば、あなたに主導権が戻る
しかし私達の精神に、自我というものが存在すると理解することができれば、そこから一つの救いが生まれる。
自我は自分自身ではないのだから、時折パルスのごとく波立つ感情は、私達自身の感情ではないという救いだ。
あなたが泣いているのではない。
幼い兄弟が泣いているんだ。
沸き起こる感情を、しっかりと見つめよう。
そして、存在する感情が自分自身と分離したものであることをはっきりと認識しよう。
例えば怒っているのなら、
そこに怒りがある。
私が怒っているのではない。
と。
そうすることで、あなたは自分の態度は自分で決められる主導権を手にすることになる。
あなたは幼い兄弟に操られている存在ではない。
泣き叫ぶ子供は、手を差し伸べず、様子を見ることも必要だ。
お兄さんお姉さんの助けは期待しても来ないと理解したら、すぐに泣き止むのだから。
しかし放って置くだけでは気がひけるなら、寂しがり屋の幼い兄弟には、あなた自身が愛情を与えてあげても良い。
そのことについては、この記事を読むと良い。

コメント