世の中は本当は心もとなく理不尽にできている
この世の中は、確固たる安全が保証されているわけではない。
しかしながら、この世界の住人は、皆一様に、安全神話のようなものを信じ切って生活している。
本来世の中とは、心もとないものなのだ。
いざとなれば守ってくれるものも、保証もない。
法律が守ってくれる、警察が守ってくれる、そんな幻想をこの社会は住人に抱かせている。
それを抱かせるからこそ、社会や国が成り立っているのだが。
よって私達は、決して野に放たれているのではなく、大きな大きな檻の中で外敵の心配なく生きていると信じ切っている。
私達がなんとなく信じ込んでいる安心は、何かアクシデントが降りかかることであっけなく崩れ去ってしまうことを身をもって知らされるのだ。
例えば、私の住む街で昔、女性を襲う事件が起きたが、犯人は未だ捕まらないままだ。
この街の女性たちは、法治の不在を感じながら道を急いだことがあったろうと思う。
そう、非日常になってみて、私達は今まで無条件に信じていた「この世の中は秩序で保たれている」という観念がとんでもない嘘であることを知る。
しかしながら、その事件は数年前であり、その犯人はまだ普通に生活しているに違いがないにもかかわらず、街の住人達はまたかつての”平和な日常”の中で生きる。
友人知人や組織が守ってくれるという共同幻想
また、自分には信頼できる仲間がいると思っていた場合にも、極端な事件が起きた場合にメッキが剥がれたりもする。
私は以前勤めていた職場で、お客から訴えると脅されたことがあった。
私は私なりの正義感、もしくは義務感で言うべきことを言ったつもりだが、たまたま相手が何かの業界の重鎮だったらしく、自分の意のままにならないことに関しては、すぐに裁判を持ち出してきた。
私は表向きは平常心を取り繕っていたが、心の中は大荒れだった。
向こうの不理解によるところが大きく、こちらは悪くない、という思いがあったので、簡単に引き下がるわけにもいかなかった。
しかし、普段笑い合ったりしている職場仲間や、上司達皆が、全く助け舟を出してくれなかった。
結果私一人が終始攻撃を受ける羽目になり、また訴えられるかもしれないという心の負担もしばらく追うことになった。(結局実際に訴えられはしなかったが)
この事件をきっかけに、私は、友達だから、年上だから、上司だからいざとなったら助けてくれるだろう、会社組織が守ってくれるだろう、というのは私が勝手に抱いていた幻想でしかなかったのだと知った。
私が自分勝手にそう思い込んでいただけなのだから、これは私の問題であり、彼らは悪くはない。
彼らも家族など、守るものがあって、勇気ある行動に移れなかったのだ。
それにしても仲間を守る人間が一人も出てこないとは意気地がないと思うが。
世の中は儚い共同幻想であり、理不尽さに満ちている
そう、この社会は仲間がいて、組織があって、相互に守り合いながら維持していると私達は普段信じているが、それは信じていることから派生して社会や組織が出来上がっているのであって、順番が逆なんだ。
近年わかりやすい例でいうと、「会社は自分のことを守ってくれない」という意識は多くの若者が感じているのではないかと思う。
これは社員個人の人生の責任について、会社は旨味だけを抜き去って後は知らぬ存ぜんであることについて言っている。
私達はこの儚く脆い「社会」という幻想システムの中で生きている。
しかしいざとなれば、自分の身は自分で守る覚悟を持てる心の準備はあったほうが良いだろう。
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