宗教が必要な理由【個人の能力に関わらず精神的高みに至るため】

宗教が必要な理由 世の中

とっつきやすいスピリチュアルもいいけれど

近年支持が広がっているスピリチュアルとは、宗教の型の部分を剥ぎ取って、エッセンスのみを抽出したものだと思う。

決まった日にちにお参りに行ったりとか、お祈りの形式などにこだわらずに、科学的に神を追求するものだと思う。

しかし私は、宗教という型も悪くないと考えている。

なぜならば、ほとんどの人間は弱々しく、自分自身の意思の力で悟りという高みに至ることは難しい。

しかし型によって管理されることで悟りに至れるならば、それでもいいじゃないかと思えるからだ。

スピリチュアルでは高みに至り辛い?

スピリチュアルというのは、宗教特有の怪しさをできるだけ排除して、爽やかなものになっていると思うので、スピリチュアルの世界に踏み入れるのに自我を納得させやすい。

しかしその分、悟りに至れるかどうかは、その人の理解力、センス、運にかかってくる。

しかし宗教という型に入るならば、その文脈に沿うことで、平凡な人間でも救われたり悟りに至ることができるのではないかと思うのだ。

例えば、念仏を唱えることで悟りに至れる。

もしくは、悟りと同じ状態にいることができる。

南無妙法蓮華経・・・と、疑問を持たず、ひたすら繰り返すことで、精神の高みに至ることができる。

しかし、多くの冷めた人間は、そこに疑問を持ってしまって真面目にやろうとしない。

私達は放って置くと自我が見せる煩悩にまみれてしまうが、念仏を唱え、その行為に意識を集中させることで、煩悩から離れることができる。

その状態が、自分がいない状態、世界が一つになっている状態、つまり悟りの世界であるのだが、スピリチュアルから入る人は、そういったことを理屈で、言葉によって説明できるまで精神世界の理解を深めなければそこに至れない。

そこに個人差が出てしまう。

宗教が必要な理由:型によりどんな人でも悟りに至れる

しかし、ある宗教に信心のある人であれば、頭ごなしに「こうやれ!」と言われたことに対して疑問を持たずに真面目にやるだろうから、理屈はわからなくても、体感できてしまう。

要は妙好人のことを言いたいのだ。

妙好人とは、一般庶民でも、念仏とともに生活を送ったことにより、精神的高みに至れた人のことを言うらしい。

江戸時代の、身分が低く学がない者でも、信心深く念仏に一心を注いだ者は、一生を安楽に過ごすことができたのだ。

現代は科学が重要視されてるから、たとえ精神世界に興味を抱く人間でも、脳が好む文脈は科学的根拠があるものに限られることが多い。

そういったことで、悟りにくくはなっている。

しかし、理屈によって悟りに近づくことができないわけでもない。

自分の脳を理屈で納得させるのは、悟りにおいてほとんど意味のない作業ではあるのだが、それも現代人に必要な過程になっているのだとしたら仕方がない。

そう言えば、イエス・キリストもよくたとえ話を用いて人々を納得させていたからね。

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