聖書の中の悪魔とは、一体どういった意味だろうか。実際に存在するものとして語られているのだろうか。それとも、これは比喩だろうか。
イスラエルのゲストハウスで宣教師と出会う
私はイスラエルに最初に行った時、エルサレムのゲストハウスで、フィンランド人の宣教師と出会った。
180センチ以上あるような大きな人で、もう結構年を行っているような感じだ。まだ生きているだろうか。
彼から声をかけてくれて、ゲストハウスで顔を合わす度に、少し会話をするようになっていった。
キリスト教のミーティングに誘われたりもしたが、私は断ったので、あまり深く関係することなく、私がゲストハウスから去る日がやってきた。
彼は、私のことが何か気になっていたようで、「静かなところで話をしよう」と誘われ、個室で二人きりになった。
それまで自分なりに聖書を読み、勉強していたが、どうしても不明瞭な部分があり、疑問をぶつけるビッグチャンスだと思った。
一生を宣教師として捧げてきた人に対して、素朴な質問は失礼に当たるかなとも思ったが、実際の宣教師は、私の素朴な疑問に関してどう思っているのかとても興味があった。
少しでも失礼に当たらないように、向こうの文脈、つまりキリスト教の文脈に則って質問した。
「私はどうしても、悪魔に悪い考えを吹き込まれてしまいます。いい考えを維持しようと思っても、気づけば悪魔にやられているのです。どうしたら悪魔を追いやれるのですか?」
私が言う悪魔とは、別の言い方をすれば自我のつもりで言った。
当時私が学んできた上では、この2つは同じで間違いないと思ったからだ。
瞑想をしていても、気づけば自我に夢中になってしまっている。手放そうとする時自己嫌悪になってしまうのだ。
宣教師も人の子
そしたらフィンランド人宣教師はこう答えてくれた。
「私が道を歩いているとします。そしたら向かいから女性が歩いてきました。そしたら、私は邪な考えを抱きます。」
おっ!?こんな80過ぎの爺さんでも、しかも真面目に宣教師としてやってきた人でも心の中は俺とおんなじメカニズムじゃねぇか!聖職者なのにねぇ。驚いた。
「そしたら、心の中でこう唱えます。
”イエス・キリストの名のもとに命ずる。悪魔よ、立ち去れ!”
そうしたら、心の中から悪魔はいなくなります。」
宣教師は笑顔で話を閉じた。
雑念を振り払う方法
えっ!?それだけ???と少し拍子抜けしたことは事実だが、雑念を払う方法として私はキリスト教の専門家に、
- 悪魔とは仏教で言う自我と同じものであること
- 聖書で語られている悪魔とは自分の心の中にある問題であること
これらをはっきりとさせることが出来た。
スピリチュアル的に解釈すると、まずは”邪な考えを抱いている”と気付くこと(アウェアネス)。
そしてチャントを唱えるなどして悪い考えを手放すこと(マインドフルネス)。
やはり、こういったやり方に落ち着くことがわかる。
ぜひ、参考にしてみて欲しい。
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