私達とは何か
私達は何かと問われて「人間に決まってるじゃないか」と答えるなら、この世の幻想世界にどっぷりと浸かっている。
”人間”というのは一つの概念である。
人間の脳が、そういう概念を作り出して、我々がその概念を共通して取り扱っているに過ぎない。
我々人間が暮らしていくのに、我々自身のことを何か頭の中で扱いやすいようにそういう概念を持った、ということだ。
私達とは何か、と問われた時に、「人間に決まってるじゃないか」と投げやりに答えるならば、「人間」という言葉の影で楽をしているのである。
この世界の真実を見ようとせずに、思考停止状態になっている。
では人間とは何か?
人間は人間だ。としか答えられなくなるだろう。
鏡をずっと見続けて欲しい。
自分の顔を、ずーっと長時間見続けるのだ。
この世界の真実が見えるのは、思い込みが外れた時
そうすると、鏡に映る存在が、何か不思議な存在、宇宙人か何かのように思えてくる瞬間がある。
そして、発狂しそうになる。
この瞬間に何が起こったか。
かかっていた幻想が解けて、この世界の真実の姿が現れたんだ。
私は人間である、としたその思い込みが外れて、素のままの有様が目に入ってきたんだ。
私達の存在とは一体なんだろうか。
これは、わからない。
私たちはどこから来て、どうしてこのような造形をしているのか。
もはや、神的な存在が、このようにさせているとしか言いようがなくなるのだ。
人間の脳みその処理限界以上の何かがあるんだ。
私達が見ている幻想は、この世界の真実ではない
私達はこの世界の姿を真実のままに捉えているわけではない。
私達は、一つ一つの概念ごとにラベル付けをして、世界を切り分けて捉えているのだ。
私達という存在は、宇宙人のような謎の生物だが、それを人間であると認識することで、脳の中で捉えることができ、ひとまず安心していられる。
”人間”というラベルをとりあえず貼り付けて安住することで、頭を使わなくて済むし、わからないものに対する時の恐怖心を味わうことから逃げられる。
この世界の真実を目の前にして、人間は脳内の解釈のみで済ませてしまい、そのありのままの姿に一向に触れようとしないのだ。
私達の脳内で考え出した概念は、実際に存在するものではない。
人間が、とりあえずでその物事を取り扱うためにラベル付けしたに過ぎない。
そしてたちの悪いことに、ほとんどの人間は、ラベルで埋め尽くされた幻想世界こそ、この世界の真実だと信じて疑わない。
この世界の真実とは、そのラベルを剥がして、直に触れた暁に見ることができるものだ。
しかしながら、人間の脳は勝手に思考するようにできているし、自然に幻想を生み出してしまう。
私達はその幻想から逃れることはできない。
たとえ悟りを開いた人間でもだ。
では、この世界の真実を知っている悟りを開いた人間と、我々とでは何が違うのか。
それは、幻想を幻想であると見破っているということだ。
悟りを開いた人間でも、脳は機能しているのだから、幻想を日常的に見ている。
しかし、それを真実だと捉えることがないだけだ。
この世界の真実は、幻想の中には存在しないと見破っているのだ。
しかし、気付きと対象は同一化するという性質がある。
つまり、幻想を見ているときは、気付きは幻想と同一化している。
別のわかりやすい言い方をすると、幻想に夢中になっている。
その時は、悟った人間と普通の人間は同じ精神状態かもしれない。
しかし、気付きのフォーカスが幻想から外れて、今幻想を見ていたことに気付きが移行するタイミングが必ず来る。
その時に、今さっきまで見ていた脳内のドラマは、単なる幻想だったんだと思える人が、悟りを開いた人なんだと思う。
通常の人間であれば、今さっきまで見ていた脳内のドラマに関心を持ち、引き続き幻想の中へと入り込もうとする。
幻想の先にこの世界の真実があることを認識しよう
私達は人間の理解を超えた世界に生きているんだ。
私達が頭で理解したと思っていることは、実際は人間の勝手なラベル付けをきっかけとして行われているに過ぎない。
まずは人間を”人間”であるとラベル付けしないと、それを取り扱えないのだ。
しかし、その”人間”とは何か、と問われた時、何も答えようがなくなってしまう。
得体の知れないクリーチャーとしか言えなくなってしまう。
この世界の真実は、人間の理解の及ぶところではない。
私達人間は、宇宙のすべてを理解しているような傲慢さを持って普段暮らしているが、実際のところはただ単に知ったかぶりをしているだけってことだ。
人間の理解という幻想のベールを取り去った先に現れるこの世界の真実の姿は、驚きと驚異に満ち溢れる、畏怖すべき現れなんだ。
私達が見ているものは、人間の脳が作った幻想だ。
人間として生きている限り、私達はその幻想から逃れることはできないが、私達の理解の向こう側に、いつもこの世界の真実があるんだということを、謙虚さを持って認識していこうじゃないか。
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