与えること、ギブが、自分にとって負担になっていないか?
一般的に、人に与えることって良いことだと言われている。
受け取る者が豊かなのではなく、与える者が真に豊かなんだよって言われたりもする。
基本的に、親切というのも、人に対して何かをやってあげる行為だし、ビジネスだってまずは他人にメリットを提供した上で対価を受け取っているわけで、与えられる人間が心理的にも金銭的にも、色んな意味で豊かになっていくというのは理解できる。
だけど、与えることが良いことなんだと思い込んで、人に与えまくった結果、苦しさを覚えたりしてないだろうか?
与えることが大事だと言っても、ギブばかりだとやっぱり苦しい。
ギブアンドテイクで釣り合いが取れてた方がいいんじゃないかとも思ったりする。
与えることで自分自身が苦しんでしまうのは、良いことでも何でも無いんだよということを、今日は伝えたい。
不足感があるとギブが難しくなる
人に与えるギブによって負担を覚える場合って、きっと自分の中に不足感があるからなんだと思う。
自分が貧乏なのに、人にお金を寄付し続けるのはきついよね。
それでも気持ちよく寄付し続けることができる人もいるかもしれないけど、ほとんどの人は寄付をやめてしまうし、それは責められることじゃない。
苦しい気持ちがあるのに、人に与え続けると、結局それって続かなくなってしまう。
無理してるってことだから。
ギブアンドテイクはすぐに結果として現れない
あと、与えることに対して不毛だと感じてしまったら辛くなる。
トータルで見たら、与える行為は自分を豊かにさせてくれると思うんだけど、一回与えただけで、何か目に見える反応が返ってくるかというと、それは違う。
時には徒労に終わることもあるだろう。
ギブアンドテイクが化学反応のように、必ず決まった反応が返ってくるならこんなわかりやすいことはない。
成果が保証されないからこそ、与えたくない人というのも必ず存在することになる。
与えることが良いことだからと言って、見返りを求める心に目をつぶってやり続けるのも、自分に負担をかける行為だ。
ギブばかりで身の丈に合ってないといずれ破綻する
とある継続的なボランティア活動に従事していた頃のことだけど、自分自身のキャリア的な部分で問題が起きた時に、正直言ってボランティア活動に熱を上げられなくなってしまったことがある。
自分自身の生活面が上手く行っていないのに、自分は何をやっているんだろうとか、こんなことをしている場合じゃないとか、雑念が湧いてきて活動に集中できなくなってしまった。
結局そのボランティア活動は活動を縮小させてもらった。
その過程において、公よりも私を優先するようで、あまり良い目で見られないんじゃないかという思いも抱いたが、やはりギブばかりで身の丈に合ってない活動は、自分にとって継続は難しかった。
損だと感じてまで人に与えるのは本末転倒だ
いくら与えることが良いことだと言われていても、与えることが負担になってはいないか?
自分の中の素直な気持ちを無視し続けるのは難しい。
与えることは良いことなんだけれども、それによってギブばかりになり、自分自身の負担になってしまっては本末転倒だ。
無理して人に与えようとしている人は、もしかしたらムキになってしまってるのかもしれない。
「与えられない人は心が貧しい人だ」とね。
しかし、自分のキャパシティというのは正直なので、せいぜいギブアンドテイクを意識するなどして、ぜひ身の丈に合った範囲を心がけるようにしよう。
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