無知の知を知った上で、表現する段階において必要な傲慢さ
こういうブログを書いているということは、自分はこのテーマについて、話題が尽きることなく毎日書けるという予測があるからなんだけど、そうは言っても、「自分って、何もわかってねぇな」と思うことも多い。
ブログを書く、何か発信する、人に教えるという段階において、自分にある種傲慢さを持たないと、表現はできないんじゃないかと思う。
その一方で、何もわかってない自分も知っているというジレンマにも直面する。
昔の賢い人は、それを「無知の知」なんて言ってくれてるから、救われる部分もある。
過去の自分は若かったってやつ
きっと、昔の自分が馬鹿だった、と思う瞬間というのは、自分が一段階上がったんじゃないかと思う。
物事を俯瞰する位置が、前よりも高い位置になったような。
成長しているってことだとすれば、いいことだけど。
世の中のこと全てをわかってて、人に説明できる、教えられるという人は、どういう心境なんだろうかと逆に思う。
情報商材系の人物によく見られる傾向だけれど。
本人のことはわからないけど、傍から見ている立場とすれば、成長の機会をだいぶ失ってるんだろうなぁ―とは思う。
俺もそういう風にブログ上では見えるかもしれない。
言う時はそうならざるを得ないところもあるかもしれないけど、やはり無知の知という謙虚さを失わずにいたくて、自分が正しくて誰かが間違ってるとか、そんな態度は取りたくはない。
無知の知を知りつつも、今の自分にとっての真実を話す
私の場合は、ある一つの真実を知っていて、それをちょっとずつ皆さんにお話している、というような立場ではない。
あくまで今現在、この瞬間に自分にとって真実である事柄について、話しているのである。
だから、明日違ったひらめきや理解が起こった時は、正反対のことをテーマにブログ記事にしている可能性もある。
人間とは、一貫性がない人間に対しては信頼しないという心理的な法則があるのはわかっている。
優れたリーダーの資質として、一貫性が必要なことも知られている。
しかし、この自然界で変化しない物は何一つとしてないのだ。
季節、自然、気候、何でも。
なので私は、あくまで無知の知を知りつつも、表現する段階においては、ある種傲慢さを持ってしてブログに自分の考えを書く。
だから、もし複数の記事を見て矛盾を見つけて「あれっ?」と思った時でも、できれば多めに見て欲しい。
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