わかるとは、現実の一部の模造である
「わかった」とはどういう状態か。
あ!わかった!と、快感とともにひらめく時、実際には何が起こっているのか。
これは私の理解では、この世界、この宇宙、タオとも呼ぶべきだろうか、からある要素を切り取った時に起こる。
あるがままの状態を見て、とある概念を切り取ることに成功した、ということだ。
概念化とは、脳で理解するために必要な仕組みである。
概念とは、その成り立ちを考えれば、実在するものではないということが明白になるだろう。
人間の脳内にしか無いものだ。
つまり、理解とは、現実のいち部分の近似である。
どれだけ現実に近い形で模造できたかが、理解の正しさ、ということになる。
人間は、ありのままの姿をそっくりそのまま理解することは出来ない。
脳内で似たものを用意して、それで現実を理解しているに過ぎない。
人の習性として、模造しながら認識を深める
子供は、お父さんお母さん、おじいさんおばあさんの絵を書く。
紙に書くということは、家族の姿の近似である。
家族の姿を描くことで、子供は「僕のお父さんだ。僕のお母さんだ。」と認識を深めているんだ。
人類の歴史として、まずはそうやって地面とか壁に絵を書き、それから絵が記号化していき、象形文字になっていったのだと思う。
そうやって、指し示すものを記号、文字に置き換えて考えられるようになっていった。
人や物を記号化することに成功した人類は、そこから派生させて、抽象概念を表す指事文字などを作っていったのだと思う。
当然だが、「私の父」と書いて、正確に私の父を表すことは出来ない。
私の父は、実在の私の父でしか無い。
あくまで真似であり、記号でしか無いということを忘れやすいので何度も言っている。
知識欲とは、人間の根源的な欲求である
人間は、わからないことが苦しみであり恐怖であり、わかることが幸福であるらしい。
だから、人間がわからない幽霊や、UFOや、暗闇などは恐ろしいと感じる。
だから、人類は発生以来、この宇宙上の全てに関心を持ち、ミクロからマクロまで解明しようとしてきた。
これは、大脳を持った人類の機能快だ。
わかるということが、大脳の機能的に快感なのだから、この流れは止められない。
神がそう人間をプログラミングしたとしか言いようがない。
もう一度言う。
人間は、わからないことが苦しみであり、わかった時に救われたり、幸福な気持ちに包まれる。
人間の一部は、人生の意味を問う
個々の人生で言えば、自分の人生の意味がわからなくて苦しむ。
だから、人生とは何か。この世とは何か。自分とは何か。と知ろう知ろうとさまよい求める。
それがわかった時を悟りと言い、わかったことの概念化に成功しているのだから、悟った人間は、他人に言葉で伝えることが可能となる。
悟りを求める者は、悟りを開いた者の言葉を求めるが、それはあくまでもヒントにしかならない。
なぜなら、言葉にした時点で事実から離れるから。
悟るには、ヒントを頼りに、悟りを自分でわかる、理解するしかない。
「わかる」について続きを書いた記事です。
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