「わかる」ということについて、昨日の続きを書こうと思う。
一部要素を真似ているのが概念
「わかる」とは、現実を切り取った一部分の模造である。
脳は、模造をすることで物事を理解している。
模造とは、概念に等しい。
概念とは、人間が創造したものなんかではない。
真似でしか無い。
人間は、全く新しいものは作ることなど出来ない。
現実をモノマネすることしかできないんだ。
無から作り出せるのは、神だけだ。
人間が、創造したと思っているものは、モノとモノをつなぎ合わせて作っているだけである。
概念と概念。模造と模造だ。
人間の思考パターンは比べるものがないと現実を見れない
人間の脳は、モノサシ、基準がないと現実を解釈できない。
もし何も持っていないとしたら、何も見えないということになる。
本当はこの世界はひとつであり、あるがままの状態でしかないのだけれど。
人間の脳の仕組みとして、現実の一部を切り取って、概念化して理解している。
理解することで、その理解したものを頭の中で扱えたり、人に情報を伝えたり、その概念を元に工夫を凝らしたりすることができる。
物事をわかるようになるためには、それだけ自分の中にピースを沢山持っておいたほうが有利だ。
頭のなかで、持っているピースとピースをつなぎ合わせて新しいものを作ったり、現実の一部分にあれでもないこれでもないと、ピースを重ね合わせてみたりして、ピッタリくるものを探すわけだ。
そういう道具、モノサシを持って、人間は現実に対している。
人間の心は表現されることで救われる
心が辛い時は、日記を書くと心が安定するという。
また、誰かに話しを聞いてもらうというのも、苦痛が和らいだりする。
これも、心の中という混沌を、言葉に置き換えて表現することで、自分の心をわかる作業をしている。
また、辛い時に、慰めの言葉をかけてもらったりすると、救われる気がするのも同じことだ。
感情表現というのは、大げさでなく人を救っている。
私自身も、こうやってブログを書くことで、何かを得ている。
また、誰かが書いた本やブログを読んで、共感した時、自分の心を言い表してくれたような気持ちになって、著者はわかってくれているという嬉しい気持ちになる。
我々は、モノマネしかする能力を持たないのだけれど、そのモノマネは人間にとって馬鹿にできない意味を持つ。
モノマネによって我々自身の心を救っているからだ。
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