自我から逃れようとする人々
この世の多くの人が、自我を振り払おうと日々色んな形で取り組んでいる。
自我の見せる妄想、幻想を、邪魔なものとして見ているからだ。
私たちは、しかしながらこの世界をありのままで捉えることはできない。
”自分なりの”解釈によって幻想世界を作り上げている。
なんか気持ち悪い
「ゲシュタルト崩壊」という現象がある。
ゲシュタルトはドイツ語で「形態・姿」というまとまりのある構造を意味する。姿かたちが壊れ、個々の構成部品に切り離されて認識されてしまう現象全般のことをゲシュタルト心理学ではこのように呼ぶ。
コトバンクより抜粋
例えば「朝」という漢字を、ずっと書き続けるとする。
そうすると、だんだんと朝という字に見えなくなって、得体の知れない文字として認識される。
今まで「朝」という漢字に対して持っていたイメージが外れてしまい、ありのままの「朝」を直視することで違った印象を受けたためだ。
これと同じことは鏡を見てもできる。
でも、本当にやらない方が良い。
自分の顔が宇宙人に見えてくるからね。
私たちには幻想が必要なのかもしれない
そう考えた時、私達人間は、妄想して、実際を直視せずに幻想世界の中だけで生きているからこそ、安定した精神を保てるのではないかと思ったのだ。
「朝」がいつもの「朝」だと見れなくなったら、とても居心地の悪い気持ちになる。
それが、あらゆるすべてのことにおいて起こったなら、とてもじゃないけど平静を保ってられない。
おそらく恐怖と混乱で発狂するんじゃないか。
私が小学生の時、学校の先生がとてもグロテスクに見えて耐えられなかった。
先生は20代後半で、今の私よりも若いんだが、顔は油っこく、毛穴が見え、匂いも漂っているような感じがした。
いや、その先生は不潔ではなかったと思う。
他の子供達は別に気にしている様子はなかったし。
おそらく今の私がその当時の先生を見たら普通の人間だと思うと思う。
当時の私が、大人の顔というものの一般化したイメージを持ててなくて、ありのままのリアルな情報を受け取ってしまっていたから生じたことだ。
我々をメンタル的に苦しめる自我が、なぜ人間に存在するのか。
それは、苦しみを生む以上に、我々を狂気から救ってくれているためだ。
我々が安定した精神を保つために必要なことだったんだ。
幻想にも、それがあれば安住できるというメリットはあったのだ。
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