「 2018年01月 」一覧

好きなように生きればいい

人生において、この自分の生命以上に大事なものなんてあるんだろうか。

いや、あるはずがない。

命、または個人の尊厳もそうだ。

しかし、俗世間で生きていると、その大前提を忘れてしまうのだ。

「世間がそんなこと許さない。」

「親がなんて思うか。。。」

そのような見方によって、自分自身も毒されているため、自分の命や尊厳よりも、そういった世間の目みたいなものを高位に置いてしまうのだ。

自分の心を守る、命を守る、健康を守ることのほうが大事なんだよ。

だから、我慢なんかしなくていい。

「仕事を辞めたら世間様に顔向けできない」

んなこたあない。

少し休んで、貯金が少なくなってきたらまた働きに出ればいいじゃないか。

 

私は、子供の頃から、世の中の人間たちが自分勝手な概念世界を作り上げているということに気がついていた。

気がついていたが、自分以外の全人類の説得によって、その幻想の方を信じてしまったんだけども。

おかげでめちゃくちゃ苦労したし、人生の遠回りをしたよ。

”世の中とはこういうものだ。望ましい人生とはこういうものだ。”

人間というのは、そんな一定のモデルというのを言って聞かせてくるのだが、一方で占いを信じたり、神社に参拝したり、人が死んだらお葬式というのをやったり、科学的に言って理屈に合わないことを何の疑問も持たずに行っているものだ。

でも、神を信じてはいないんだ。神を信じないなら、参拝する必要もないし、仏教の形式でお葬式だってする必要もないじゃないか。

少なくとも、そこに疑問を持とうよ。って思ってた。

何で人は参拝するのか。何でお経をあげるのか。

その、世間の習わしに盲目的な大衆というものに、気持ち悪さを感じていた子供時代だった。

 

ともかく、この世間の大人たちが言っている、世の中のイメージ、また人生というものに対して、そんなものは間違っていると言わなければならない。

すくなくとも、疑問の目を向けなければいけない。

世の中で決まっていること、世間の目、そんなものはまやかしだ。

みんながあると信じているから、存在できるのかもしれないが、それのほうが個人の尊厳よりも上に来るというのはありえないことじゃないか。

本当に苦しくなったら、そんなものから逃げてしまえばいい。

あなたを守ってくれるのは、あなた自身しかいないのだから。


感謝という行為の重要さ

あれは4年半前のことだった。

私はイスラエルへ旅行をし、そこで出会ったフィンランド人の宣教師に対して問うた。

「私はイエス・キリストが実在したことも信じてます。また、聖書に書かれていることも真実だと思っています。でも、幸せではないんです。私に足りないのは一体何なんですか?」

フィンランド人宣教師(おそらく80歳くらいだろう)は答えた。

「あなたに足りないのは。。。。感謝です。」

感謝。。。。

宣教師は、私の質問が的を射ていたと思ったからか、興奮気味に私を抱きしめ「わが息子よ。イエス・キリストに、どんなことでもいいから、祈りを捧げてみなさい」と言った。

今思い返すと、映画のいち場面のような出来事だった。

その宣教師の言ったことは、今ならわかる。

決して、知識が人を幸せにするのではない。

積極的な祈り、神への感謝という行為によってのみ、救われるのだ。

求められているのはアクションだ。

感謝をするということは、真剣であらねばならない。片手間でできることではない。

神経を集中させ、リラックスしなければならない。

人は、悟りを知りたがる。

知りたくて渇望している。

真理とは何か。悟りとは何か。

しかし知ることだけでは、幸福を産まない。

この世は夢の様なものだったという気楽さは生むかもしれないが。

ただただ、祈る。感謝をする。

自ら感謝の波動を作り出す。自らが発信者となるのだ。

素直な人間のほうが、遠回りせずに幸せになれるのだ。

あらゆる聖典に書かれている「神に感謝せよ」という教えに従わないで、頭でわかろうとするのが多くの人間だ。

しかし、導かれる者は結局導かれるのだ。

行為は知識に勝る。


自分で決める

自分で決めるというのは、飼いならしにあって生きてきた現代人にとっては、難しいことだろう。

普段我々は、生活環境というのが取り囲んでいて、ほとんど何も考えずに生きることが出来ている。

朝起きたら支度をして会社へ行き、定時になったら帰宅をし、家で夕飯を食べ、風呂に入って家族でテレビを見て時間になったら床につく。

そこに自由意志はないかもしれないが、これはこれで仕事や家族の責任を負っているとは言っても、頭を使わずに楽に生きることができるのである。

本当の自由とは、こういった生活に慣れてしまっている人間にとっては、どうにも苦しいものである。

せっかく自由を手に入れても、苦しくて、わざわざまたサラリーマン生活という檻の中に戻ってしまう人もいるくらいだ。

本当の自由を貫こうと思ったら、自分の頭を働かせなければいけない。

それと、決断をするというのも大事になってくる。

答えを求める思考回路をもっている人が、自由を苦にするんだろう。

自分はこう生きる。なぜなら私がこう決めたから。

そのように自分の決断を根拠にできる人が強い。


主体性をもたらすもの

環境に流されず、また、自分自身に根付く”性”にも流されずに、意思を持って歩んでいくにはどうすればよいか。

それには、「型」を持つことが大事だ。

自分の型を持てば、他からの影響を防ぐことができる。

もし、自分の人生を成功させたい、やりたいことを実現したい、と思ったら、これが必要になる。

いろんな影響を持って自分に迫ってくる外界に対して、何の術も持たずに立ち向かっては、結局絡め取られてしまい、他人の都合、社会の都合を聞いているだけの人生となるのだ。

自分の型とは何か?というのもすぐには答えは出ないことではある。

答えのない世界から、一定の答えを自分なりに導き出さないといけない。

それには、無限に試すということが大事になってくる。

型とは、職場への通勤の仕方にも似ている。

ある人にとっては、ちょっと早い始発の電車に乗って座って行くのが好きな場合があるだろう。

またある人にとっては、職場の最寄りまで早めに着き、近くのCafeでその日の仕事を確認することがリズムになっている場合もあるだろう。

会社の行き方に、一つの回答はない。

人それぞれの習慣の中で作り上げられたリズムというのがある。

型を持っている人間は強いのだ。


あなたは◯田◯郎さんではない

自分は「誰々」という人間ではない。

「誰々」という人間に根付く魂だ。

「誰々」という人間を、この世でうまく生かしていく責任があると言えるだろう。

この人間の人生が、生きててよかったなと思えるような人生に導いてあげる。

人間には性があって、何も手を加えてあげなければ、運命通りの人生となるだろう。

それを魂である自分が、宿り先の人物のケツをひっぱたいて何とかうまい方向に向かわせるのだ。

性とは、人間の性格や癖など遺伝子を含めたものであって、その人物にかかる自然の力のようなものである。

習慣の重力ともいえるだろうか。

ロールプレーイングゲームに例えるとわかりやすいかもしれない。

テレビ画面内の主人公を、コントローラーを使って、いろんな冒険をさせて上手く成長させてあげる。

あなたはテレビ画面内のキャラクターなのではない。

コントローラーを握り締めしている側なのである。

その点もくれぐれも忘れないようにしなければいけない。


足りないのは感謝

人生における不幸とは、目覚めのための愛のムチである。

「わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。 主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである」。
あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。

ヘブル人への手紙 第12章

不幸や災難に思える出来事があったとしたら、それは神的な存在が私たちに気づかせようとしているのだ。

私たちは、圧倒的に感謝が足りない。何かをしてもらった時に、やっと「ありがとう」というくらいである。ギブアンドテイクでないと、感謝の気持ちを持つ必要がないと思っている。

また、感謝するためには感謝できるだけの理由が必要だと思っている。

本当は、ただただ、感謝しかないはずなのだ。

この恵み。すでに与えられているもの。この私という実在。私を中心として広がる宇宙。

当たり前だとしているものの凄さに、改めて恐れおののき、ただただ頭を垂れるしかない。

そして神の繁栄を願わずにいられない。

感謝に理由などいらない。ただただ、感謝をすればいいのである。

くだらない思考を働かせず、ひたすら真面目に感謝の念を持ってみよう。

理由がなくても行う。自分から始める。自分が根拠である。

それが真のリーダーシップであり、創造である。

こういった理屈じゃあない。実際に私自身もブログを書く手を止めて、祈りに入らなければならない。

これに気づかないと、とことんまで不幸によって追い詰められる。気づくまで神がムチを与えるのだ。怖いことだと言えるかもしれない。


「悟り」という概念

「悟り」とは何か。

「悟り」とは、悟りを体験し、理解し、人に説明できるようになること。

悟った者は、過去から現在まで自らの言葉を通じて、悟りの道を広めようとすることが多い。

また、理解しているのだから、再現性があって、自分が望む時に悟りの状態に入れること。

覚者にもレベルがあって、レベルが高いと、常に悟りの心境でいることができる。

イエス・キリストや老子、ゴータマ・シッダールタは最高位に当たるだろう。

一方で、スピリチュアル系の中には、本当に悟ったのかな?と疑問に感じる者もいたりもする。おそらく、悟りを体験したのは本当なんだろう。それをどれだけ自分のものにできるかはまた別問題だと言うことだ。

至高体験に遭ってから、また次の修行が始まると言ってもいい。

至高体験に出会うことは、例え聖者じゃなくとも起こり得ることだが、普通の人間はその体験を価値の無いものとして忘れてしまったり、また、たまたま偶然訪れた体験だったため、自分の努力でもう一度体験しようと思っても二度と起こらない。

人間の脳は「忘れる」という機能を持つ。

どんなに強烈な体験をしても、月日が経てば、記憶が薄らいでいってしまうこともある。

ではどうやったら悟れるのか。

悟りの瞬間が訪れるのは運命のようなものだが、私は、悟りを求めなければ悟ることは出来ないと考える。

悟りを求め、祈ったり、修行を重ねる人のほとんどが、一生の間に悟れずに亡くなっていく。

だから、悟りの一端でも垣間見ることができた者は、本当に幸福であり、運命や、そういう運命を与えてくれた神に感謝するだろう。


宇宙の中心

私とは何か。

もうこれは、永遠に解決不可能なことではないかと思う。

例え、人間が宇宙の果てまで調べ尽くせたとしても、この根本、私についてはきっと解明できないと思う。

理屈で説明つかないということであって、誰しもが知覚はできることではあるが。

”私”とは、宇宙の中心であり、減らすことも、増やすことも出来ない。誰からも傷つけられることもない。

絶対安心の領域。

人はみな、宇宙とは、自分の外にあると思い込んでいるが、本当は”私”が宇宙そのものなのだ。

”私”がなかったら、宇宙は存在しない。

人が頭で考える宇宙は、客観的宇宙であり、そのような”私”のいない宇宙は現実には存在しない。

実在するのは、主観的宇宙。宇宙の中心にいるのは”私”だ。

そのような驚愕すべき存在が我々なのだ。

それが理解されれば、人間の作った幻想社会に埋もれる必要性は何もないことがわかる。

私は「山田太郎」という名前で、誰々の息子で、日本人で。。。。

というのは全部人間社会の幻想に乗っかっているだけ。

本当は、あなたは人間の理解を超えた、とてつもなく価値のある存在。

あなたを作ったのは、母親ではなくて、神的な存在。

そういう前提のもとに、この世は夢の様なものだと理解して生きられれば、肩の力が抜けて穏やかに生きられる気がする。


夢から時々醒めよ

この世とは何か。

人間とは何か。

宇宙とは何か。

これは何だ。

そういう思いに至った時、ただただ驚愕し、黙り込むしか無い。

そこには意味などもはや存在しない。

日常のいざこざや、つまらない気にしなきゃいけないことなど、どうってことなかったのだ。

この”何か”の中で生かされている。

生きることを宿命付けられている。

そしてまた、自分の意識に帰ってくる。

その上で、どう生きるか。

片方の世界だけではいけない。

日常生活だけでは、人間の矮小な頭脳が生み出した概念の中では、狂った世界であるのだから、真面目に生きる者ほど気が狂ってもおかしくない。

時々は、いや、一日に一回はこの世は夢の様なものだと思い出す体験が必要だ。

ただ目を閉じ、音を聞き、見えないものを見ようとしていると、感覚だけになる。

感覚しようとすると、自分がいなくなる。共存はできない。

そうすると、偉大さに触れられる。

そしてまた日常に帰っていくために必要な知恵を授けられることも少なくない。

それと同時に気力も与えられる。

その繰り返し。

何の意味がある?

もともと、意味なんて無い。

だったらどれだけ自分の心を納得させ、喜ばせる生き方に挑戦できるかだ。


人としてどう生きるか

どう生きるべきか。

これは人間の最大にして最難関のテーマだ。

これは答えが用意されているわけではない。

でも、答えを求めようとしてしまうところに、苦しみが生まれる。

これだ、と思ったテーマも、時間が経つにつれ、どうも違うと思い始め、やがては離れていく。

自分の中に回答があるのだけれど、自分を覗き込んでもそこには何もないようだ。

結局、自分で「決める」ことが必要なんだと気がつく。

「決める」のも難しい。大脳で考えたことは、理屈は通ってるんだけど、なんかしっくりと来なかったりする。

腹に落ちた決心なら、全身全霊で取り組もうと素直に思える。そこにはもう、理由などいらない。ただ、自分がやりたいから。やると決めたから、というわけである。

腹に落ちる、というのも、何かのきっかけで不意に訪れるものであって、悩み苦しむ日々は必要なんだと思う。

そこにはもう、世間一般に言われている幸せの形式は隅に追いやられている。

それはまさに、よそが用意した幸せの形。

人間生まれ落ちて、親や世間の洗脳に染まり、一度はそこを目指すのは仕方がない。

その生き方にうまくはまることができなかった人間、なんか違うと感じちゃった人間は、答えのない世界に飛び出し、もがき始めるのだ。